ミラノ・コルティナ冬季五輪のフィギュアスケート女子では、日本勢から中井亜美が、銀メダルとなった坂本花織に次ぐ銅メダルに輝いた。中井はショートプログラム(SP)とフリーのいずれでもトリプルアクセルを決め、オリンピックでこの技に成功した4人目の日本女子選手となった。

 今回の中井の活躍を機に、女子では世界で初めてトリプルアクセルに成功した第一人者・伊藤みどりにも改めて脚光が当たっている。当時は“お嬢さん芸”とも言われていた女子フィギュア界を変えた、彼女の歩みとは。(全3回の2回目/続きを読む

伊藤みどり。女子では世界で初めて公式戦でトリプルアクセルを成功させた ©文藝春秋

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 伊藤みどりは1980年9月に名古屋市内で小学校を転校した頃から、山田満知子コーチの家族と一緒に暮らしながら練習を続けていた。伊藤の家庭では、両親が離婚したため母がひとりで働いて3人の子供たちを養っていたが、彼女の練習時間が早朝や夜遅くまでにおよぶにしたがい十分なサポートが難しくなったため、山田が手を差しのべたのだ。もともと山田の家にはスケート教室の教え子や保護者が頻繁に出入りしており、伊藤も普段から家族ぐるみでつきあいがあった。それだけに本人に言わせると「いつの間にか“居候”になっていた」というのが実際のところらしい(高橋隆太郎『満知子せんせい みどり、真央、昌磨と綴った愛の物語』中日新聞社、2025年)。

 ただ、当時の雑誌記事を見ると、母子家庭に育った少女がコーチの家に住み込みながら朝夕厳しい指導を受けている……といったスポーツ根性物のような筋立てで紹介されたものが目立つ。このころ大ヒットした朝ドラ『おしん』のヒロインになぞらえられたりもした。

「フィギュアを純粋スポーツへと流れを変える存在」

 一方で、海外の関係者を中心に、伊藤を次代を拓く選手として注目する向きもじわじわと増えつつあった。米国放送局CBSスポーツのプロデューサー兼ディレクターは、1984年のサラエボ五輪前の世界ジュニア選手権での伊藤のパワフルな演技を見て、《エレン・ザイアック[引用者注:エレイン・ザヤック]というチャンピオンが昔いた。フィギュアスケートを純粋スポーツの面と芸術的な面に分けてみた時、純粋スポーツの面へ持ってったんだ。ところがその後フィギュアの趨勢は芸術的要素の方へ変えられてしまった。伊藤みどりの出現は、再びフィギュアを純粋スポーツへと流れを変えてくれるんじゃないか。そういう意味でスケート界にとってみどりは今いわば最高の存在だね》と、脚本家の倉本聰との会話で口にしている(『Number』1984年2月20日号)。

倉本聰(左)と伊藤みどり ©文藝春秋

 ザヤックは1980年代前半に国際大会で3回転ジャンプを連発して活躍した選手だ。しかし、その後、同じ種類のジャンプを何度も繰り返すことはプログラム全体の構成のバランスを欠くとの理由から、ジャンプの回数などに制限をかけた新たなルールが設けられた。

 それでも伊藤はジャンプが大好きで、難しい技を次々と自分のものにしていった。ジャンプは、欧米の選手に対し身体的にも有利に働いた。それというのも、欧米人の長い手足は、演技全体を優美に表現できるが、ジャンプで回転軸のブレを抑えようとする際には、扱いの難しいパーツとなるからだ(城田憲子『たかがジャンプ されどジャンプ 日本フィギュアスケートに金メダルをもたらした武器』集英社、2022年)。