全身が紫色になっていた裸の男性

 他の場所でも、積み上がった瓦礫の下からうなり声が聞こえた。3人の消防士を呼んで調べると、下には流された家があり、そこに人がいるのではないかという。瓦礫まみれの瓦をはがし、屋根板や天井板を破ると、古い平屋だったらしく、1階の鴨居の上に先祖の遺影が飾ってあるのが見えた。そのうちの1枚を取り出すと、なんと慶一さんの母親だった。「俺のうちだったのか」と驚いた。

 大谷家には昭和初期に建築された平屋と、築25年ほどの2階家があった。2階家は津波が1階を突き抜けたものの、まだその場に建っていた。基礎石の上に置いただけの平屋は100mほど流され、瓦礫に埋もれていたのだった。

「いわき震災伝承みらい館」展望デッキのパネル。薄磯の被災直後の様子などが分かる

 3人の消防士が命綱をつけて中に下りると、大黒柱が倒れていて、近くの男性が下敷きになっていた。津波に流されて入り込んだらしい。激流に服をさらわれたのか、真っ裸だった。酸欠状態で全身が紫色になっていた。

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 太い大黒柱はノコギリで切らなければ助け出せない。だが、調達できたのは豊間小学校の用務員室にあった折り畳み式だけだった。しかもあちこちの歯が欠けていた。3人の消防士が交代で作業をしたが、堅いケヤキでできていたのでなかなか切れない。夜になり、慶一さんが消防の予備のヘッドライトで瓦礫の上から照らしていると、明らかに消防士の息が上がってくる。慶一さんは装備もないのに手伝いに下りた。

薄磯の海。左上の道路の山側が住宅地(塩屋埼灯台から)

 大津波警報は夜になっても解除されておらず、余震も続いていた。津波は何度も押し寄せていたと見られる。そんな時に瓦礫の下にもぐったら、命を失いかねなかった。慶一さんは「誰かに少し高い場所から見張ってもらい、津波が来たら大声で知らせてくれと頼みました。ただ、津波が来たら一巻の終わりでした。冷静なつもりでいても、正常な判断ができなくなっていました。私は持病を押して作業を続け、その後長く体調不良に苦しむことになりました」と話す。

 そうまでして助け出した男性は、間もなく息を引き取った。

「娘が死んじゃったの」と明るく話す人もいた

「天狗様」のお堂も夜は真っ暗な中で孤立し、気持ちが追い詰められた人もいた。

「娘が死んじゃったの」と明るく話す人がいて驚いたのを、加代さんは覚えている。

「重傷者が3人いました。でも、どうすることもできません。早く朝になってほしいと願うばかりで、長い夜でした」と振り返る。

被災後の薄磯を撮影した写真を見せながら語り部活動をする大谷加代さん(いわき震災伝承みらい館)

 翌朝、「天狗様」には消防団が担架を持って上がってきた。まちは瓦礫に覆われていたが、流れ着いた畳を敷くなどして、かろうじて小学校まで歩けるようになっていた。これをたどって避難した。

 その後、大谷夫妻は少し離れた地区の中学校に避難したが、いわき市役所から43km北にある東京電力福島第1原発の暴走が止まらず、埼玉県に2週間ほど避難した。帰還してからは、加代さんの実家や、借り上げ型の仮設住宅、災害公営住宅などに身を寄せて、7年ほど前に薄磯で家を再建した。