一方、同じ3月26日付でも萬朝報と二六新聞(以下、二六)は相変わらずシビアで、萬朝報は明子の父・定二郎を訪問。いろいろ聞きただしている。定二郎は明子がいつ帰ってくるか分からないとしたうえで、二六が書いた「平塚家の不和」を強く否定。こう語っている。
「男女の関係は不安」「応じるくらいなら死んでもいい」
実は明子が家出する前、日記その他の物を友人である木村政子方へ人をもって届けたことが分かったものですから、木村方へ行って調べてみました。すると、森田へ送った手紙や原稿などがありまして、2人の間に関係があることを知りました。文中には「男女の関係、いわゆる愛は不安なもので、どんなに申し込まれても承知したという答えはできない。応じるくらいなら死んでもいい。どんな惨めな殺され方でも甘んじて受ける」などとありました。そのことから察しても情交はなかったのだろうと思われます。それを早く公にすべきでしたが、前途有為の森田文学士を傷つけるだけでなく、私ども一家の不名誉になりますから秘密にしていました。
それによって思いますのは、2人が手に手をとって情死(心中)行に至ったのは、森田の方では妻子さえ顧みないほど熱狂して恋慕したからには死を覚悟して口説き、明子の方もまた、森田の意に応じるくらいなら死んだ方がましだとの覚悟がありましたから、互いに死が衝突してあんなことになったのでしょう。
木村政子は女子大時代の同級生で親友。25日付東朝の記事にあった、明子が手紙を送った相手「友人某」は彼女のこと。その手紙の内容を載せたのは翌3月27日付の時事だった。
拝啓 我が最後の筆跡に候 学校に行きませんと申せしは実は死すとの事に候 願(わ)くは君と共なるざるを許せ、君は知り玉ふべし 余は決して恋の為め人の為めに死するものにあらず 自己を貫かんが為めなり 自己のシステムを全うせんが為めなり 孤独の旅路なり 天下、余を知るものは君一人なり 余が二十年の生涯は勝利なり 君安んぜよ 而して万事を許せ さらば
明子四十一年三月廿(二十)一日
木村政子様
(原文のまま)
自宅の書き置きとも通じる内容だ。時事の記事全体の見出しは「明子と語る」。26日に帰宅した明子に記者は面会を求めた。
別室に引きこもり中というが、束髪に被布(着物の上に着る羽織)姿で出てきて静かに記者に一礼し、少しも動じた色がなかった。記者の「自己を貫かんが為なりの真意は?」との問いに答えて、「私は何とでもご推諒(=推しはかり理解する)に任せます。実際、自己を貫くためです。私の真意は木村さん以外の方には到底ご了解くださることはできません。どれほどお尋ねくだされても、私は木村さんに訴えた意中のほかに所存はありません」とのことだった。
事件の後であっても依然として意思の強さを失っていない。同じ日付の萬朝報にも「禪學令嬢の告白」の記事があるが、記者に対する明子の言葉は時事より一歩踏み込んでいる。


