いまから118年前。1908年3月に起きた、ある「心中未遂」は、当時連日新聞にセンセーショナルに報じられて時代を画す一大スキャンダルになった。男性は著名な作家・森田草平となり、女性は日本の女性解放運動の“旗手”平塚らいてう(雷鳥)となるが、「事件」の真相はどうだったのか、そして、なぜそれほどの騒ぎになったのか。

 東京を飛び出した2人は、直線距離にして100km以上離れた栃木・塩原(現那須塩原市)で発見・保護され、その後ーー。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全4回の2回目/続きを読む)

◆ ◆ ◆

ADVERTISEMENT

塩原で発見…「意中の文學士と駆け落ち」

 1908年3月21日、平塚(はる)が家出をした。高級官僚である平塚定二郎の娘で、通称「明子(はるこ)」(この記事でもそう表記する)と呼ばれた“令嬢”の行方をめぐっては、結婚を嫌がって家出したのではないか、身投げをするのではないかなど、さまざまな情報が流れた。だが、3月25日付の新聞で報道のトーンは一変する。

 前日の24日、明子が発見、保護されたが、彼女は1人ではなかった。各紙の見出しを見ると――。

「今様高襟(「ハイカラ」)の道行 令嬢の行衛は鹽(塩)原 相手は森田文學士」(東京朝日新聞。以下、東朝)

「禪學令嬢ハ健在です 意中の文學士と駈落(かけおち)す」萬朝報(よろずちょうほう)

「紛失せる令嬢 鹽原に(おい)(おさえ)らる 二十世紀式の道行」(東京二六新聞。以下、二六)

 東京日々(現毎日新聞。以下、東日)の「高襟」には「ハイカラ」のルビが。「ハイカラ」は新奇なもの、洋風のものを指す明治時代の新語で、羨望と冷笑のニュアンスを含んでいた。「女學生家出後報 鹽原山にて見付る」とした福沢諭吉創刊の時事新報は、本記に同行者がいたことの記述はなく、別項で「家出女學生の情人」の見出しで「文學士森田米松と徘徊しているところを取り押さえられた」と記述した。「家出令嬢の踪跡判明す」の報知新聞(以下、報知)は同行者の存在をつかめなかったようだ。この時点でもまだ、「明子」と正しく表記したのは東日と萬朝報だけだった。