実は森田草平は途中、宇都宮から長江宛てに「文壇に出ることは一足遅れたが、極楽へ行くことは一足早し これを信ぜよ」と書いたはがきを出しており、そこから「華厳(けごん)の滝」(※)行きの推測が生まれた。東朝の続く「決死の原因」の中見出しに続く記事は、草平の人となりと2人の関係に触れた後、後半は主見出しの「自然主義の高潮」につながる論旨。いまから見るとかなり奇異だ。

※華厳の滝:栃木県日光市にある、落差97メートルの滝。1903(明治36)年5月21日、当時旧制一高(現東大教養部)の学生だった藤村操が満16歳で華厳の滝に投身自殺した。彼の死は当時言われた「煩悶青年」の死として社会に衝撃を与えた。後を追うように華厳の滝に身を投げる人が続出。4年間に自殺を図ったのは185人、うち既遂は40人に上ったという。「若者の家出―自殺―華厳の滝」という連想は広く社会に生きていた。

男と一緒に保護されたことで、自然主義と結び付けて捉えられた(東京朝日)

東大出身で妻子のある小説家の男

 森田文学士は一昨年の大学(東京帝大=現東大)出身で秀才のほまれがある。数編の小説も著して文名を知られており、家に若い妻に子どもさえある身の上なのに、明子とともに某女学校に同僚として教鞭を取っていたのが悪い因縁で、文学上の志向が同じだったことから、ついに離れられない情交を通じるに至った。しかし、一方には妻子がある身。晴れて雙棲(そうせい)の歓(※)をなすことはできず、浮世の定めを恨んだあまり、情死の覚悟を決めた。森田文学士はまず妻子を郷里に帰して面倒を避け、その後、明子と2人、死に場所を求めて東京を出たが、幸か不幸か、ついに死に場所が得られず、警官の手に保護されるに及んだ。

 

 古来から情死は珍しくないとはいえ、今回のように、最高等の教育を受けた紳士淑女にして愚かな男女の無分別な行為を真似するのは実に未曾有のことに属する。自然主義、性欲満足主義の最高潮を代表する珍奇な見聞と言うべきだ。しかも、2人が尾頭峠の山上で保護した警官に「われらの行動は恋の神聖の発揮であり、俯仰天地に恥じず(※)」と公言するに至っては言語道断というべきではないか。
※雙棲の歓=仲睦まじく暮らすこと
※俯仰天地に恥じず=やましいところはなく公明正大

森田草平は写真でなく似顔絵が掲載された(萬朝報)

 確かに、こうした事件があれば、大方が「不倫関係の清算」と見ることは現在も変わらないだろう。ただ、このあきれたような憤慨したような文章に、「事件」が世間を沸かせた主因がのぞいているような気がする。

センセーショナルだった「スーパーエリートと令嬢」の心中未遂

 森田草平、本名・森田米松は1881(明治14)年3月生まれで、満27歳になったばかり。当時の日本で正式な大学は東京帝大と京都帝大(現京大)の2つだけ。東京帝大は1学年200人前後にすぎず、卒業生である「学士」は間違いなくスーパーエリート。女性も女子大出といえば砂の中のダイヤモンドのような存在で、だからこそ見出しにも取られた。その組み合わせは確かに「心中事件」史上未曾有だったかもしれない。

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 一方で、当時の新聞社会面担当の現場記者は総じて学歴が低く、和服に鳥打帽という旧来のスタイル。ギャップからのねたみが混じっていたとも推察できる。