いまから118年前。1908年3月に起きた「心中未遂」は、連日新聞にセンセーショナルに報じられて時代を画す一大スキャンダルになった。

 その後、男性は作家・森田草平となり、女性は日本の女性解放運動の“旗手”平塚らいてう(雷鳥)となるが、なぜそれほどの騒ぎになったのか。事件の真相は? 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全4回の3回目/続きを読む)

写真はイメージ ©AFLO

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妻子持ちのうえ、下宿の娘とも…

 1908年3月21日、平塚(はる)(当時23)が家出をした。高級官僚である平塚定二郎の娘で、通称「明子」(この記事でもそう表記する)と呼ばれた“令嬢”の行方をめぐっては、結婚を嫌がって家出したのではないか、身投げをするのではないかなど、さまざまな情報が流れた。だが、3月24日に明子が妻子ある文学士・森田草平(本名:森田米松。当時27)と一緒にいるところを塩原で発見、保護されると、たちまち報道のトーンは一変する。

 3月26日付も各紙は記事に力を入れた。特に東京朝日新聞(以下、東朝)は社会面の大半をつぶして「戀(恋)の犠牲(いけにえ) 嗚呼 新時代の青年 男も學者女も學者 學問の行止(いきどまり)が情死」の見出しで各方面に取材した結果を紙面化した。

 明子は昨夜(25日夜)出迎えの人とともに帰京したはずだが、草平は昨夜塩原の旅館にいたとしたうえで、草平の経歴から書き進めている。

 森田文学士の素性

 森田草平氏は岐阜の生まれで中学校卒業後、金沢の旧制第四高校(現金沢大)に入学。その前に郷里で現在28歳の女性と関係ができた。四高を落第して一高に入学した後も関係は続き、2人の間には一男一女があったが、女児は昨年死亡。帝大(東京帝大=現東大)卒業前から現在に至るまで、本郷区丸山福山町4番地に下宿しているが、そこは樋口一葉が亡くなった家だった。草平氏はその下宿の娘とも関係ができたが、その後、手を切り、妻子を呼び迎えた。

 

 浪漫的の森田

 草平氏は才子で学業は衆に秀で、夏目(漱石)、上田(敏)両講師にも愛されていた。一見粘着質なようだが、その実、非常に神経質で常に西洋文学を愛読。特にダンヌンツィオ(※)の諸作を熱愛した。特に最も好んだのは「死の勝利」という近代的香気の高い小説だった。長年氏を教えたある大学教授いわく「常に憂鬱で厭世的思想を持ち、時々常軌を逸するようなこともあるが、馬鹿馬鹿しいほど世情に通じないわけでもない。一言で言えばロマンチストだ」。平常は沈黙し、哲学上の思索にふけるのを唯一の楽しみとしているという。

※ダンヌンツィオ=イタリアの作家・政治家

平塚らいてうと森田草平(「週刊日録20世紀」より)

 ロマンチストで思い込みが激しく、女にだらしがない。そんな青年の姿が浮かぶ。伊藤整『日本文壇史12』は「揺れ動く、不安定な、暗い気持ちを持った青年であった」とする。このころ東京帝大では、のちに作家となる漱石と詩人で訳詩集『海潮音』で知られる上田敏が講師をしていた(漱石は一高講師と兼任)。一方の明子は——。