この会を通じて明子と草平は、明子が書いた小説をきっかけに親交を深めていった。『平塚らいてう 愛と反逆の青春』と佐々木英昭『「新しい女」の到来 平塚らいてうと漱石』は2人の接触を細かく追っているが、一言で言えば文学的、観念的だ。3月26日付東朝の記事は「事件」に接近していく。

漱石もさじを投げた?

 森田、妻を棄つ(=捨てる)

 森田が21日に出発する3日前、妻と離婚の約束をし、20日の夜は打ちしおれた顔で妻と水盃(みずさかずき)を交わしたというから、死を覚悟していたのではないか。しかし、離縁が明子を熱愛したためとは断定し難い。両人の自殺の動機は各氏の談話からほぼ推察できるのではないか。

 記事はこう書いて、まず与謝野晶子の談話を掲げる。晶子は明子が家出の5日前に訪ねてきて小説の梗概を話したと言い、「おそらく自身の境遇、思想、感情を説明したのではあるまいか」と語る。だが、それは女に付きまとわれた男の妄想をつづった内容で「心中行」の動機には直接結びつかない。次いで登場するのは夏目漱石だ。記事は「長年森田を教え、森田も恩師と仰ぐ夏目氏は記者に語っていわく……」と次のように漱石の言葉を記す。

 狂言といううわさもあるが、それは信じられない。細君を離別したとすれば、友人なり誰なりが明子の親に結婚を申し込めばおそらく話が成立するだろうから、あえて狂言をする必要はない。森田はいつも厭世的なことばかり言っているが、家出の5日前、私のところへ来て、衣食の資(生活費)が得られるよう懇々と頼んでいったので、私もそのつもりで準備していた。してみると、自死の決心があったようにも思われないが、一方、あんな深山に入った点から見ると、やはり死ぬ気があったようだ。

 

 新時代の青年の頭は複雑で、朝変暮改。ちょっと想像することができない。当人に会って聞かなければ、友人にも私にも真意は決して分かるものでない。今回の件の批評? それは区々として(まちまちで)一定しないだろう。2人を子に持った古い頭の親と、教えた師匠と交わっている友人と、若い新思想を持った青年と、それぞれ見方が違うはずだ。

事件についての漱石の談話が載った(東京朝日)
夏目漱石 国会図書館「近代日本人の肖像」より

「主人(漱石)は火箸をもって火鉢の灰に2本の水平線と2本の垂直線を描いて観察者の位置、感情、思想がそれぞれ違うことを示した」と記事は書く。この段階ではこれが漱石の本音であり、さじを投げる心境だったのだろうが、草平との関係を考えれば、もっと事情を知っていたはずだ。この東朝の大きな記事の「ネタ元」でもあったのではないか。

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森田が漱石に宛てた“遺書”

 東朝の記事には「森田文学士が22日、宇都宮から恩師に宛てたる遺書」の写真が添えられている。恩師とは漱石のことで、この写真も漱石が東朝に提供したのだろう。漱石は「事件」の前年の1907(明治40)年、一高・東大の講師から転身して東朝に入社。同紙に小説を連載していた。遺書の内容は——。

 誰か芸術を以て真を求むるとい()、芸術は徹頭徹尾自ら欺くものなり、衷心不安に堪へ(耐え)ざるものが自他を欺きて虚栄に生き()とするストラツグル(=闘争)に過ぎず。何故に自己の思想を他に伝ふ(る)の必要ありや。先生の前に金を借りに行く時余は弱者也。此言を為す時余は強者也。

 鋭敏な頭脳に屈折したエリート意識とでもいうのか。これに女好きが加われば……。要するに「面倒くさい男」だろう。