1983年、医学部に通っていた姉が統合失調症を発症。医療につなげない両親に対し、弟の藤野知明監督は怒りを募らせる。一時は「突発的に両親を殺してしまうのではないか」と思い詰めたこともあったという。

 大学卒業後に実家を離れた藤野監督は、姉や家族の状態をカメラで記録。その記録は後にドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』となり、今年1月には同名の書籍『どうすればよかったか?』(文藝春秋)も刊行された。

 南京錠のかかった家で暮らしていた姉は、なぜ25年の歳月を経て入院することになったのか。藤野監督に話を聞いた。(全4回の3回目/4回目に続く)

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藤野知明監督 ©文藝春秋

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「また同じ1日が始まるのかと思うと、とにかく怖くて」

――お姉さんを医療につなげない両親に怒りが募り、一時は「殺すかもしれない」とすら思ったのだとか。

藤野知明さん(以下、藤野) 姉のことで両親と口論することが増えて「突発的に何かをしちゃうかもしれない」と考えたことはありました。毎朝、日が昇ってくるのが怖かったんですよね。

 鳥がチュンチュン鳴いたり、だんだんカーテンの向こうが明るくなってくるのがわかるんですけど、また同じ1日が始まるのかと思うと、とにかく怖くて。

 だから僕、新聞で「子どもが親に暴力を振るった」とか「殺めた」という記事を読むと、事件が起きた時間を調べるんですよ。僕にとっては朝の4時とか5時が一番つらくて危険な時間帯だったので、それが気になって。

1991年、カナダのアルバータ州バンフ市近郊で。姉は両親が関係する論文を英文でまとめる手伝いなどをして、海外の国際学会に出席し発表することもあった。 ©2024動画工房ぞうしま

自分自身の生活の確立を優先して、横浜で一人暮らしをすることに

――他人事には思えなかったのですね。

藤野 そうですね。怒りをどうやって抑えるかというのは色々と考えていました。頭の中で考えがグルグル回って、ずっと答えが出ないんですね。考えたくなくても考えてしまうのをなんとか止めたくて、音楽を聴いたり散歩をしたり、すごく大変でしたね。

――そういう状態は、藤野さんが実家を出るまで続いたのでしょうか。

藤野 はい。大学を卒業して住宅メーカーの営業職に就いたんですが、北海道の家から遠ければ遠いほど良かったので、配属先が横浜に決まって喜びましたね。姉のことが心配ではありましたが、両親と物理的に距離を置くことで、まずは自分自身の生活を確立することを優先しました。