「怒声が飛ぶことは日常茶飯事」会社でも精神的に追い詰められて…

――実家を出てからはどんな生活をしていたのでしょうか。

藤野 横浜の独身寮で生活を始めたんですが、配属先の営業所が非常に厳しいところで。月に1棟売るのが「ノルマでは無い」と表向きには言われていたんですが、前月に契約をとれなかった社員に対しては、「ゼロ社員教育」というものが行われるんですよ。

――それはどういうものだったのですか。

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藤野 統括している上司が講師をやるんですけど、休みの日に出社させられて、ひたすら追及されるんですね。怒声が飛ぶことは日常茶飯事で、何か教育的な意味があってやっているというより、「こんなひどい目に遭いたくなければ来月から契約を取れ」ということですよね。僕も何度か行きましたけど、それはもう大変でした。

1994年の元旦。家族で食事をしているところを母が撮影した。私はカメラを見ることを拒否している。姉は自宅で医師国家試験の勉強中。私は横浜でハウスメーカーに勤務していて帰省中。 ©2024動画工房ぞうしま

――精神的に、さらに追い詰められたのではないですか。

藤野 そうですね。その頃は映画を観ても音楽を聴いても、頭に入らないというか、何も感じなくなってしまって。昔聴いて良かった曲でも、何がいいのかわからなくなるような感じですね。

「また向き合おうと決めていました」家族との縁を切らなかったワケ

――その会社にはいつまで勤めていたのでしょうか。

藤野 入社して1年半くらい経った時に、お客さんのところに向かう途中で偶然、日本映画学校(現・日本映画大学)の前を通ったんですよ。「あっ、こんなところにあるんだ」と思って。ちょうど同時期に『パルプ・フィクション』を観て映画熱が再燃したところだったので、ふらっと教務課に立ち寄って、願書をもらいに行っちゃったんです。

 受付で色々と話を聞いてみると、監督コースはすごく人気で、人が少ないのは録音コースだと。音は電気で記録、再生するのですが、大学で物理を学んでいた僕には得意分野だったので、それもあって、会社を辞めて録音コースに入学することにしました。

――家を出てからは、家族とはどういった付き合い方をしていたのでしょう。

藤野 近況を聞くくらいですけど、たまに連絡を取ったり、1年か2年おきくらいに帰ったりすることはありましたね。

――家族と縁を切ったり、連絡を取らなかったりというような選択肢もあったと思いますが、そうしなかったのはなぜですか。

藤野 問題がある家庭だとは思っていたんですけど、そこまで両親に対して憎しみがあったわけではなかったことと、姉はきちんとした治療を受けられない被害者なので、いつか何とかしたいと思っていました。

 1994年の元旦。家族で食事をしているところを父が撮影した。姉は自宅で医師国家試験の勉強中。私は横浜でハウスメーカーに勤務していて帰省中。 ©2024動画工房ぞうしま

 僕自身、姉の言動でストレスにはなっていましたけど、本人もそうしたくてやっているわけじゃないと思っていたんですよね。

 家を出たのも、経済的な自立も含めて「自分の生活を確立しなければならない」と思っていたからだったので、その準備がある程度できた段階で、また家族と向き合おうと決めていました。