父なる神「デウス」のことをほんの少しでも理解していたら、「出臼」という漢字を当てることは絶対にしなかったであろうし、ましてやキリストを意味する「フィイリョ」に「肥料」はありえない。オラショの言葉を耳で聞く限り、450年以上前に宣教師たちが教えたものと、さほど大きく変わってはおらず、何の祈りであるかは、原典を知っている現代のわれわれにはほぼ推察できるものが多い。

オラショは真の信仰伝承の証明となるか

 カクレキリシタンの人々がオラショを唱えるのを聞くと、キリシタン信仰が今日まで伝えられてきた、まぎれもない証拠として感銘を受ける。しかし、それが真の信仰伝承の証明となるには、オラショの言葉の意味をある程度までしっかりと理解して唱えていたことが明らかにされねばならない。現代のひろい知識を持ったわれわれに理解できるからといって、彼らも同じように理解できていたものとつい思い込んでしまいがちである。過去のものを現代の尺度ではかろうとはしていないか、細心の注意が求められる。

 日本にやってきた外国人が着物を着て、スシが大好きという外面的なことだけで、内面まですっかり日本人らしくなったとみなすことはできないのと同様、十字架を首から下げ、オラショを唱え、十字の印を切っているからといって、それだけで敬虔なクリスチャンになったとみなすのは早計といわざるをえない。

次の記事に続く 彼らが拝んでいたのは「マリア」でも「キリスト」でもなかった…“カクレキリシタン”が200年以上守り抜いた“信仰の正体”