日本人最初のバタ臭い、ハイカラな戦国武将
16世紀の中頃、日本に初めてキリスト教が伝来した時、時代を先取りする進歩的な人物であった織田信長は、キリシタン宣教師がもたらした進んだ南蛮文化にいち早く興味を示し、積極的に取り入れた日本人最初のバタ臭い、ハイカラな人物であった。
信長は鉄砲を通して西欧文明に初めて接し、海外から渡来した文物を積極的に受け入れた。1581年(天正9)、安土城下で行われた左義長の祭(小正月の火祭り どんど焼き)の時、ヴァリニャーノ神父から献上された黒いビロードのポルトガルの立派な帽子をかぶり、金襴の豪華なマント姿で現れた。また、珍酡酒(赤ブドウ酒)を好んだことはよく知られている。
さて、その当時の日本人は、初めてキリシタン宣教師をみたり、その教えにふれたとき、どのような反応を示したのであろうか。ハイカラな人物が、新奇なバタ臭いものに直ちに興味関心を示すのは世の常である。
ハイカラな世界とは無縁の一般民衆層の反応は
本書で主として扱ってきたのは、新奇なものなど知りたくとも知ることができなかった、手に入れたくとも手に入れることができなかった、ハイカラな世界とは無縁の一般民衆層の反応であった。民衆層の反応を知るにたる手がかりはさほど多くは残されていない。だからといって、大多数を占める民衆層を無視しては、日本人とキリスト教の関係をただしく見渡すことはできない。一部の特殊な階層の特殊な事例を、「日本人は」と敷衍してしまっては、実態から乖離してしまうことになる。
従来の日本におけるキリシタン研究は、ややもすれば記録にその名が残されたキリシタン宣教師、キリシタン大名のような一握りの指導者、為政者、キリシタン殉教者といった、一部のきわめて限られた特別な人々にかたよっていたといわざるをえない。
彼らの行動が日本におけるキリスト教の歴史を華々しく物語っているのはまちがいない。しかし、日本人の大多数を占める一般民衆が西洋文化と出会った時、キリスト教に対していかなる思いを抱き、いかなるものとして理解し、いかなる宗教として受け止めたのかということは、例外的なエリート層の人々の言動からだけでは決してうかがい知ることはできないものがある。