舶来物が最高という信仰にも似た感性

 日本においてキリスト教の信徒数が増えない内的な要因として、明治の初めから、今日にいたるまで続いている舶来信仰もしくはブランド信仰、別の言葉でいえば西洋文化至上主義が指摘できるのではなかろうか。いったいキリスト教の信徒数と舶来信仰にはどのような関係があるのだろうか。

 舶来物とは船に載せられて外国からやってきたものを意味するが、実際には日本人にとっては見事に欧米からのものに限られており、東南アジアやアフリカなどから入ってきたものは、私たちの意識の中では舶来物の範疇に入っていない。明治の文明開化期、戦後の復興期に欧米の進んだ文物を珍重し、ありがたいものとしてもてはやしたことは理解できる。しかし、日本が高度成長を遂げ、欧米社会と肩を並べ、世界でも有数のテクノロジー国家に成長した今でも、舶来物崇拝意識が厳然と存在し続けていることは驚きである。

 どんなに優れた物が安価に日本で作られていても、車ならベンツかBMWのドイツ車、時計ならオメガかロレックスのスイス製、香水ならシャネルかディオールのフランス製、バッグもエルメスかヴィトンのフランス製、ブランデーはコニャック、ワインならボルドーと相場は決まっている。欧米から直輸入された舶来物が最高という、一種の信仰にも似た感性が今でも厳として残っている。

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ブランドとしてのキリスト教という逆説

 それなら宗教もヨーロッパ伝来のブランド宗教たるキリスト教が最高と考えるはずである。たしかに慣れ親しんできた神仏信仰をおろそかにすることはできないが、その他の宗教の中では、キリスト教が一番安心できる、上等な宗教と考えられているのはまちがいないところであろう。

 ただ、そのことが逆にネックとなって、キリスト教が日本社会に浸透することを妨げている要因となっているのではなかろうか。どういうことかといえば、キリスト教も欧米風のキリスト教だからこそありがた味があるのであって、日本の諸宗教と融合したりすれば、それは偽物のキリスト教となって価値がなくなると感じるのである。

 この感覚はキリシタンの復活以来、パリ外国宣教会の司祭たちによって、徹底した指導・薫陶を受けて育てられた日本人司祭の骨身に染みこみ、容易に洗い落とすことのできない足かせとなっているように思われる。