キリスト教の土着化をこばみ続ける日本
さらにそのような日本人司祭から指導された日本人信徒もまた、舶来物のキリスト教讃美者となることは自然のなりゆきである。このメカニズムはカトリックのみならず、プロテスタントも同様であり、むしろ、インテリ層の多いプロテスタントのほうにその傾向が強いかもしれない。
信徒数が増えるということは必然的に民衆化、大衆化をともなうことになる。民衆化するには土着化が不可欠である。土着化するということは、その土地に古くから伝承されてきた宗教的伝統や慣習といったものを積極的に取り込み、融合していくということにほかならない。
欧米風のキリスト教を理想のモデルとし、土着化をこばみ続ける限り、すでに土着化している旧信者と、ごく少数の超まじめなインテリ層である新信者を除けば、日本人を改宗に導くのは、限りなく困難な作業といわざるをえない。2014年一年間の実質的な日本全国におけるカトリックの宣教活動の成果は、本章の「キリシタン時代と現代の信徒数」に掲げた成人洗礼3093名という数である。
信徒の減少で没落の岐路に立たされているキリスト教
ここで認識しておかねばならないのは、これまで理想と仰いできた欧米のキリスト教そのものが、急激な信徒の減少によって、世界的なレベルにおいて没落の岐路に立たされているということである。たとえれば、欧米では人気がなくなり売れなくなってしまった旧モデル車を、日本人がいくら欧米からの直輸入物が好きだからといって、いつまでもそのまま輸入販売し続けるようなものである。日本人の好みに合わせて徹底してモデルチェンジしない限り、日本での高シェア獲得はありえない。このモデルチェンジが土着化(日本化)ということである。
これまでキリスト教は、世界で最高の宗教なのであるから、他の宗教のほうから歩み寄ってくるのがあたりまえで、キリスト教のほうからそうする必要はないとあぐらをかいてきたところがなかっただろうか。外国人宣教師たちも口にこそ出さないが、仏教や神道を一段低いものとみて、まず日本の知識人やエリート層を先に改宗させれば、民衆層も自然にキリスト教に近づいてくるものと楽観視していたのではないか。
第二バチカン公会議(1962年〜1965年)はそのような反省の上に開かれ、諸宗教との対話を進め、大胆な体質変革を遂げたといわれている。しかし、まだまだ末端の民衆層にまで、その精神が浸透しているとはいいがたい。日本のキリスト教会には、いまだに欧米風のキリスト教が唯一の範とすべきものであるとの考えが根強く残っており、キリスト教側から日本の伝統的諸宗教に歩み寄り、共生の道を模索しようとする努力を怠ってきた。