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懲役は⋯
若松は同年12月から横浜地裁で始まった裁判で殺意を全面的に否定する。が、同地裁は若松が事前に3回の爆破実験をして、爆発物の威力を十分に知っていたことから、少なくとも爆発物に近い座席にいた乗客に対しては未必的な殺意があると認定し、死刑判決を下す(1969年3月)。
これを不服として控訴した若松に対して、東京高裁は精神鑑定を実施したものの、結果「完全に責任能力あり」と認定され控訴を棄却(1970年8月)。その後、最高裁が上告を退けたことで死刑が確定する(1971年4月)。
確定死刑囚として東京拘置所に収監された若松は獄中でキリスト教の洗礼を受けるとともに、他の死刑囚の影響から短歌を書くようになり、純多摩良樹というペンネームで、しばしばキリスト教関連の月刊誌に投稿した。
作品は高く評価され、自身も歌集を出したいと意欲的だったが、支援者などから「遺族の気持ちを考えると、すぐに出すべきではない」と引き止められたそうだ。