古来、人類はさまざまな感染症に苦しめられてきた。
100年前のスペイン風邪然り、世界を未曾有の混乱に陥れた新型コロナウイルス然り。これらは今もなお、変異を繰り返しながら私たちの日常に潜んでいる。私たちはその恐ろしさを知っていて、常に警戒を怠ることはしない。
その一方で、数百年、あるいは数千年という気の遠くなるような歳月の間、人々の命をじわじわと削り続けてきた感染症が存在する。
しかし、現代ではほとんど忘れ去られてしまっている――。
その病が歴史の表舞台に姿を現したのは、戦国時代のことだ。甲斐武田氏の軍略を記した軍学書『甲陽軍鑑』に、ある悲劇的な場面が綴られている。(全3回の1回目/つづきを読む)
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戦国の記録に現れる“ナゾの奇病”
天正10(1582)年、武田氏の重臣で足軽大将の小幡昌盛は、主君・武田勝頼との対面を望んだ。
小幡は駕籠に乗って現れる。本来、足軽大将という身分で駕籠に乗って主君の前に現れるのは不遜な行為だが、勝頼はそれを許した。
いや、許さざるを得なかったのだろう。
小幡は前年の天正9年から「積聚の脹満」を患っていた。積聚とは腹部の異常な塊や腫れを指す。もはや戦に出たくとも出られず、死期を悟った彼は今生の暇乞いにやってきたわけだ。勝頼は「是非に及ばず」と涙を流したという。
これが、現在に残されたこの病の最も古い記録とされている。
当時は原因不明の内臓疾患、あるいは何らかの祟りとして片付けられていたのかもしれない。しかし、この「脹満」は、その後もこの土地にべったりと張り付き、伝染していったようだ。
病のことを歌った民謡まで…
元禄年間(1688~1704年)の記録によれば、山梨の甲府盆地で「水腫脹満」の薬というものが飛ぶように売れていたという。この地では、原因もわからないまま腹が太鼓のように膨れ上がり、死んでいく者が後を絶たなかったらしい。
江戸時代末期には、甲府盆地周辺において、この病はもはや日常の一部となっていたようだ。と言うのも、当時の山梨では次のような歌詞の民謡がうたわれているからだ。
「嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池の葦水飲むつらさよ」
「中の割に嫁に行くには、買ってやるぞや経かたびらに棺桶」
「野牛島」も「中の割」も、この病の流行地だったとされる山梨県内の地名である。野牛島にある池の水を飲めば、あるいはその水辺で働けば、必ず腹が膨れて死ぬ。また、流行地に娘を嫁に出すことは、死装束と棺桶を持たせることと同義だった。
しかし、民謡のように言い伝えられていても、農民たちはその土地を捨てて生きることはできない。田を耕して水を使い、そして死んでいくのだ。

