姉に勝てなかったのど自慢大会
終戦直後のこの時代には各地でのど自慢大会が盛んに行われていた。島倉も一番上の姉に誘われては出場した。姉は島倉以上に歌が上手く、姉が1位で、島倉が2位ということが多く、どうしても1位になりたいときは一人でこっそり出かけたという。そのなかでレコード会社の関係者の目に留まり、11歳のときには、「お山のお猿」という童謡のレコードを出している。ただし、盤面にクレジットされた名前は「戸倉千代子」と誤記されていた。
姉妹は同時期に歌手の登竜門であるレコード会社の歌謡コンクールにも挑戦している。姉はポリドールの準専属の歌手になったが、小児麻痺で体が不自由だったため、本契約にはいたらなかった。
美空ひばりに憧れて
一方、妹の島倉は日本音楽高等学校(現・品川学藝高等学校)の2年生だった1954年、東京代表として出場したコロムビア全国歌謡コンクール(日本コロムビア主催)の決勝で優勝する。同コンクールではその2年前にも東京地区予選に出場したが、コロムビアの専属歌手だった美空ひばりの「りんご追分」を歌って3位に終わり、審査員の一人から「ひばりは一人でいい」と言われた苦い経験があった。ひばりに憧れるあまり、モノマネになってしまっていたのだ。
「ひばりは一人でいい」と言われたことを島倉はずっと忘れられず、悩みに悩んだ。中学卒業後、品川高校(現・品川女子学院高等部)に進んだものの、音楽を基礎から勉強して個性をつくる必要を感じ、2年生のとき日本音楽高等学校に編入したいと校長に直談判する。楽譜さえろくに読めない実力では無理だと言われるが、彼女は校門に座り込み、2年間で3年分の勉強をやり抜くと訴えて、やっと編入が認められたのだった。《私、引っ込み思案のくせに、歌に関しては自分でも驚くほど積極的になるんですよね》とは後年の本人談である(『週刊文春』1998年5月21日号)。
