「歌の下手な子だねぇ」
コンクールに優勝してコロムビアに入社、翌1955年、「この世の花」でレコードデビューした。作曲したのは「リンゴの唄」のほか美空ひばりの歌も多数手がけていた万城目正である。島倉はデビューを前に歌を勉強したいので先生につきたいと自ら申し出て、神奈川県大船の万城目の家に通った。指導は厳しく、最初のレッスンで歌ってみると、「歌の下手な子だねえ」と言われてしまう。
その後もずっと叱られ通しで、その日も落ち込んで帰りの電車に乗っていたところ、近くの席に本を夢中になって読んでいる人がいた。しばらく眺めていると、1行ずつ文章を追っていくその人の表情が、楽しそうになったり悲しそうになったり、くるくる変わった。それを見て彼女はハッとひらめく。自分は歌が下手なのだから、せめて歌詞に表情をつけてみよう。それには歌詞に含まれる意味を把握するため、まずは繰り返し読まなければならない――と。
さっそく「この世の花」の歌詞を一つひとつ読んでいき、自分なりに解釈して胸に叩き込んだ。そのうえで改めて歌ってみると自然に感情があふれ出て、いままでとあきらかに違った歌になっていることがわかったという。「この世の花」は発売後なかなか売れなかったが、半年経った9月頃になって売れ出し、秋に発表した「りんどう峠」とあわせてヒットとなる。
30回連続の紅白出場を果たす
歌に関しては積極的に動く彼女は、美空ひばりの「波止場だよ、お父つぁん」(1956年)を聴くと、作曲した船村徹に「ひばりさんのような歌をつくってください」とこのときも直談判する。こうして生まれたのが、1957年に発売され、彼女の代表曲の一つとなる「東京だョおっ母さん」だ。この年にはNHKの紅白歌合戦にも初出場し、以後、1986年まで30回連続で出場することになった。
プロになってからはずっと母がつきっきりで地方巡業を含め仕事先を回った。優しかった母だが、デビューするや途端に、厳しく怖い母へと変貌したという。先述のとおり礼儀作法や言葉遣いを叩き込まれるだけでなく、常にプロであることを徹底させられた。旅先で盲腸になってドクターストップがかかっても、痛み止めの注射を打ってもらい、舞台に送り出された。医師には「あの方、本当のお母さんですか」とあきれられるほどだった。
