猛反対された結婚、結婚式には…

 恋愛にも厳しく、男性からの電話は一切取り次いでくれなかった。それが、阪神タイガースの選手だった藤本勝巳は関西在住とあってか、島倉との関係が進展することはないだろうとたかをくくっていたらしい。先に書いたとおり(#1)、その後、藤本と結婚するに際して母親は猛反対し、結婚式にはほかの家族とともに欠席した。

 ……と、島倉は思い込んでいたのだが、母が亡くなったあとで、じつはあのとき式場に母は来ており、スタッフに混じって裏方として働いていたのだと知人から知らされた。これにかぎらず、母の死後に島倉が初めて知ったことは少なくない。幼いころの大けがのことも、千代子に水を汲みに行かせなかったらあんなことにはならなかったのにと、自分を責めていたという。

 島倉が夫との別居後、母が実家に戻ることを許さなかったため、アパート暮らしを余儀なくされたときにも、母は他人には「そんなにつらかったら帰ってきたらいいのに」と漏らしていたようだ。当時の島倉はそんなことは知るよしもなく、何て冷たい母親だろうと恨みもした。しかし、のちに振り返って、このときの経験のおかげで一人で生きていくとはどういうことか真剣に考えるようになったといい、続けて次のように語っている。

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《それから月日を重ねるうちに、だんだん母の気持ちがわかるようになりましたね。もし、あのまま実家に戻っていたら、私は何も成長しなかったでしょう。母は、私に一人でも生きていける人間になってほしかったんだと思います。それが母なりの愛だったんですね》(『いきいき』2005年12月号)

 母は2年ほど入院した末、1972年に73歳で亡くなった。その死を島倉が知らされたのは日本武道館でのコンサートが始まる数時間前のこと。その日、彼女はステージに母が好きだった紫の着物で上がると、母に聞かせるように発表まもない「人生峠」を歌った。

(#3につづく)

次の記事に続く 姉の自死、2度のがん、紅白辞退…「涙を流しながら、笑って生きて」最後まで歌い続けた島倉千代子の“人生いろいろ”

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