帰国した酒井さんは、すぐ実家に帰省。9月中旬のちょうど稲刈りシーズンで、高速バスから伊那谷に広がる田んぼの風景を見た時に、「生きて帰ってきた」実感が湧き、涙が出たという。
「その風景を見た時に、地元に戻って何か役に立つことをやりたいなと思いました。インドでお米に命を助けられたので、お米関係のことができたらいいなと思ったんです」
「子どもたちのふるさとを守りたい」
酒井さんは「米関係の仕事がしたい」と思いつつ、農業の経験もなかったので、まずは地元の一般企業で営業の仕事をした。その後、結婚して子どもが生まれたタイミングで、先に酒井さんの親が移り住んでいた飯島町に引っ越すことに。その際、食肉加工で包丁を握る仕事の募集があることを知り、「職人仕事への憧れもあったから」と転職した。
その頃、少子高齢化で人口が減り、将来的に飯島町は消滅してしまうという報道を目にした。
「僕は海外に行った時に、ふるさとの大切さを認識しました。でも、このままだと子どもたちのふるさとがなくなってしまうと思ったらすごく切なくなって」
ふるさとを守るためには町おこしが必要だと考えた。マラソンが趣味だった酒井さんは、各地のマラソン大会にたくさん人が集まっているのを見て、経済効果があると感じていた。また、飯島町は「飯(めし)の島」の名の通り米の産地でもあることから、米を絡めたい。改めて飯島町の歴史を調べてみると、江戸幕府の直轄地で、町には陣屋(役所)があったことを知る。
「陣屋があるということは、年貢米が集まった地域じゃないかっていうのを想像して。米を届けるというテーマで、米俵を担いで走ったらおもしろいんじゃないかと思いつきました」
さっそく新聞広告を出すと、定員50人が3日で埋まった。大きな反響に手応えを感じた酒井さんだが、ここからが誤算だった。
米俵をつくれる農家がいない
「農家ならみんな当たり前に米俵をつくれると思ったんですが、何軒まわっても誰もつくれないことがわかりました。僕は農家出身じゃないから、その状況を知らなかったんです」