犯人は「助産師界の第一人者」
本件の主犯格である石川(旧姓:小丸)ミユキは1897年(明治30年)、宮崎県で生まれた。県立職業学校を卒業後、18歳で上京し東京帝国大学(現・東京大学)病院付属産婆講習科に入学。当時の女性としては注目に値すべき高学歴だ。
1919年(大正8年)に内務省指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆(助産師)の資格を取得し、以降20年以上にわたり産院を経営。1942年4月の東京大空襲前に寿産院を開業した。逮捕当時の肩書は日本助産婦看護婦保健婦協会理事、東京都助産婦会牛込支部長および牛込助産婦会会長。
1947年の『婦人年鑑』においては助産師界の第一人者の一人として紹介されており、同年4月には発足からまもない新宿区の区会議員選挙に無所属で立候補し、落選している。
一方、夫の猛は1894年茨城県生まれ。農学校を2年で中退し、18歳で兵役に志願し、憲兵軍曹で除隊した。警視庁巡査となった1919年、26歳のときに3歳下のミユキと結婚し、谷中署、王子署などに勤務後、1926年に退職。
以降は定職に就かずに妻の事業を手伝うようになる。ちなみに、夫妻の間に実子はなく、家庭は猛と先妻の間の息子および養子3人(男2人・女1人)の6人暮らし。傍からは裕福な一家に映っていた。
優れた助産技術を持つミユキの産院には、多くの女性助産師が集まった。しかし、実際にミユキの働きぶりを目にした彼女たちは、ほどなく「鬼産婆」のあだ名で院長のことを噂するようになる。その名の由来は、ミユキが1943年から始めた一つの事業に起因していた。