汚染がさらに拡大した理由

 このころになると、水俣の住民たちも病気の原因がチッソにあることを確信し、同年11月には一部住民が操業を止めるよう求めて工場に乱入、警察と衝突騒ぎを起こす。一方、住民の中には疑惑を持ちつつ工場の操業継続を望む者もいた。

 水俣は古くからチッソの城下町。大量の雇用を生み、多額の税金を納め、市の発展に貢献してきた。

 そんな企業が操業を停止すれば街全体が衰退し、自分たちも生活に窮してしまうというわけで、チッソは彼らの声を味方に、その後も工場の稼働を続け、廃棄物の流出も止めなかった。ただ、世間の批判をかわすため排出先をそれまでの百間港(調査の中心となった最初の汚染源)から水俣川に変更。

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 これにより、さらに汚染が拡大し、鹿児島県出水市の漁村でも新たな患者が発生することになる。

 健康被害や環境破壊をもたらすチッソは1959年12月、抗議の声を抑えるため、水俣病患者と家族で作る「水俣病患者家庭互助会」と見舞い金の契約を結ぶ(死亡者1人97万円、生存者年間10万円)。

 そんなわずかな金で事態の収束を図ろうとするチッソに、国の担当である通産省(現・経済産業省)も味方についた。

 当時の同省局長は「チッソが作る素材は日本の経済に極めて重要。チッソが業務停止すれば影響は甚大」などと国民の健康より成長経済を優先する見解を提示。