国のお墨付きをもらった形のチッソは1962年2月の水俣市長選で、当時の社長だった橋本彦七(1897-1972)が出馬、返り咲きを果たし(1950年~1958年にも市長を務めていた)、以降1970年2月まで在任。その間、多くのチッソ社員が市議会議員に選出された。

事件後に生まれた子供にまで影響が

 一方、被害は拡大の一途をたどり、水俣病発生後に生まれ、汚染された魚を一度も食べたことがなかった子供にも同じような症状が現れる。母親の血流を介して胎児にメチル水銀が入り込んだのだ。

写真はイメージ ©getty

 1962年、熊大の研究グループは、これらの子供たちが今まで認識されていなかった「先天性水俣病」であると発表。死亡した2人と生存している16人の子供を正式に患者として認定する。

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 3年後の1965年には新潟県でもメチル水銀を原因とした水俣病が発生(新潟水俣病)。いよいよチッソの加害が糾弾されていくなか、1968年5月、チッソは病原であるメチル水銀を生むアセトアルデヒドの生産を停止すると同時に、工場からの排水中止を決定する。

 これを受け、同年9月26日、日本政府はついに水俣病の原因に関する公式の結論を発表した。