反発を招いた「政府の発表」

〈水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期にわたり大量に摂取することで発症する中枢神経系の疾患である。

 原因物質はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド酢酸製造施設で生成されたメチル水銀で、工場排水として排出され大きな被害を生んだ。が、水俣病患者は1960年に確認されたのを最後に、その後、終息した。

 これは、1957年秋に水俣湾産の魚介類の摂取が禁止されたこと、および同工場が1960年1月から廃棄物処理施設を設置していたことが要因と考えられる〉

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 事実誤認も甚だしかった。

 1960年1月には排水処理施設も設置されておらず、政府が公式結論を示した1968年時点でも新たな水俣病患者が認定されていた。しかし、被害者は国が初めて水俣病をチッソによる公害と認めたことで一定の安心感を覚え、闘いの舞台は訴訟に移っていく。

 1968年10月8日、被害者らで作る互助会はチッソに補償協定を求めることを決定し、要望書を提出する。対して、チッソは正当な補償額は判断できないと回答し、拘束力のある仲裁委員会を設置して決定するよう日本政府に求めた。この提案の真の目的は互助会会員を分裂させることにあり、その思惑どおり互助会内部で仲裁派と訴訟派が対立。チッソは仲裁を選択した会員に贈り物を届けた。

 一方、チッソから要請を受けた厚生省(現・厚生労働省)は1969年4月25日、調停委員会を設置。

 チッソに求める補償金を、死亡した患者に200万円、生存患者に20万円を支払うこととする草案を作成する。新聞のリークによりこの事実を知った互助会と調停団は補償金の低さに驚愕し、委員会に猛抗議。

 5月25日には、厚生省内で抗議活動を行った13人が逮捕される事態にまで発展する。