結果、委員会は草案の修正を余儀なくされ、2日後の27日に死亡者に400万円、生存者に年間38万円を支払うよう変更し、互助会仲裁派との合意を取り付けたものの、納得できない水俣市民会議は当日、チッソ工場の門の外で抗議活動を行った。

「私たちは国家権力と闘う」

 一方、断固として裁判での決着を求める28世帯112人の認定患者(うち17人はすでに死亡)を原告とする弁護団は1969年6月14日、熊本地裁にチッソを相手取った損害賠償を提起。

 団長が「今日、そしてこの日から、私たちは国家権力と闘う」と宣言した。が、水俣の発展に大きな貢献を果たした大企業チッソを訴えた人々は地元住民から激しい反発に遭い、ある原告女性は家族の漁船を無断で使用され、路上で人糞を投げつけられたそうだ。

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 裁判は4年におよび、その間チッソは弁明に終始した。以下、彼らの主張をまとめる。

・工場排水中の物質と水俣病の間に科学的因果関係は証明されていない。
・病気の原因はメチル水銀ではなく、工場で使っていたアミン類の可能性がある(熊本大学の一部研究者にも協力させて「アミン説」を主張したが、実際は完全な虚偽)。
・当時の日本では工場排水をそのまま流すことは普通だった。アセトアルデヒド工場の排水基準すらなかったのだから、違法性はない。
・1959年に締結した「見舞金契約」には〈チッソ側の責任は問わない〉との免責条項が入っており、原告が求める賠償金は二重取りに該当する。
・当時、国はチッソを守る立場で、水俣工場は国家政策として重要と捉えられていた。よって操業停止は国の経済に多大な損失をもたらした。

 対して弁護側はチッソ水俣工場附属病院長だった細川一(1901-1970)を証人として要請。がんに侵され病床にあった細川から水俣病が明らかになる前、チッソが猫400匹に対して廃棄物の排水を飲ませる実験を行い、水俣病患者と同じ症状が出たことを把握していたとの供述を引き出す。また、元工場長の西田栄一(1906-1991)は、会社が安全よりも利益を優先したため、危険な労働環境と水銀への配慮の欠如が生じていたと証言。

 さらに元社長の吉岡喜一(1901-1989)はチッソが「戦時中の爆雷や爆薬の残骸が海底にあって、そこから水銀が出ている可能性もある」と根拠のない原因説を広めていた事実を認めた。

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