1996年、初代『ポケモン』が発売された時、ゲーム市場はすでに「プレステ」や「セガサターン」といった次世代機の話題で持ちきりだった。ゲームボーイのモノクロRPGは時代遅れと見なされ、初回生産本数はわずか23.5万本。「期待値ゼロ」からのスタートだった。

 そこからどのようにして、『ポケモン』は日本を代表するRPGに成長したのか。『国産RPGクロニクル 物語の革命者たち』(イースト・プレス)の一部を抜粋して紹介する。

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失われた商機

 1989年の開発開始から7年間の開発期間を経た、1996年。ついに完成した初代『ポケモン』について、ゲームフリークのパートナーであったクリーチャーズの代表、石原恒和さんは、開発サイドのプロデューサーとして「200万本売れるゲームができた」と思ったそうです。

 ところが前述の通り、この7年間のうちに、ゲーム市場は一変してしまっていました。

 まず開発開始の翌年、1990年にはスーパーファミコンが発売。これはほぼゲームボーイと同世代の据え置き型ゲーム機といえるでしょう。ところがその4年後、1994年には「次世代機」と呼ばれたプレイステーションとセガサターンが発売され、世間の注目は「次世代ハード戦争にどっちが勝つか?」に注がれていました。

 そして翌年1995年には、当の任天堂からバーチャルボーイ発売。これは、当時としてはゲームボーイの後継機と目されていたハードですから、名実ともにゲームボーイの時代は終わった、という状況だったのです。そしてさらに『ポケモン』発売と同年の1996年にはNINTENDO64の発売も予定されており、もはやゲームボーイは数世代前のハードという雰囲気すらありました。

 つまりゲームボーイという最新ハードに合わせて企画し、開発してきたはずの初代『ポケモン』は、その開発期間のうちにハードの寿命を過ぎてしまい、すっかり時代遅れのプロジェクトになってしまっていたのです。

 このような環境の中、発売元の任天堂が決めた初回生産本数は23万5000本。

「200万本売れる!」と意気込んでいた石原さんと田尻さんは意気消沈しますが、市場環境を考えると、これでもかなり任天堂ががんばってくれた生産数だったと言えます。

 もうすぐ来年にはプレイステーションで初のフル3DCGによる『FF7』が発売するというご時世に、今さらゲームボーイのモノクロ画面で遊ぶ8ビットRPGが登場。

ファイナルファンタジーVII。画像は公式サイトより

 そんな「期待値ゼロ」に限りなく近い状況で発売されたのが、『ポケモン赤・緑』でした。

 ところが、そうした市場環境にあっても、ほとんど唯一、ポケモンを高く評価したメディアがありました。それが子ども向けマンガ雑誌『月刊コロコロコミック』です。