留学生の受け入れ体制における格差
しかし、どうしても建前にしか聞こえず、この内容を真に受けている陸上関係者はいない。実際、ルール変更を支持する関係者たちに話を聞くと、スピード重視という選手育成の観点ではなく「ケニア人を使われると勝てなくなる」という勝敗への不満から規制を歓迎する声が多い。
簡単に言えば、ケニア人留学生を受け入れられる高校と、それが難しい高校との間で不公平感があるという不満だ。
学校法人を持つ私立では、学校の判断によって留学生を受け入れることができるが、国公立の場合は第4章で紹介した世羅高校のように制度の間隙を縫ったような特別な仕組みを用いなければ受け入れることができない。学費や寮費などの負担が生じるため、莫大な寄付金収入がある世羅高校のように、部活の強化のために自由に使える資金が必要になる。
そうした条件を整えられる国公立の高校はほとんどなく、また私立でも経営の意向や予算の問題で受け入れられないというケースは少なくない。そのため、受け入れられる高校とそうでない高校が存在してしまうのだ。
勝利至上主義に対する批判…なぜ留学生だけが問題視されるのか
こうした留学生起用への反対意見は、これまで勝利至上主義に対する批判とセットで語られてきた。高校スポーツはあくまでも教育の一環であるはずなのに、勝つことそのものに偏りすぎていないかという視点である。この見方は一理ある。
ケニア人ランナーを受け入れている高校側は公式には、留学生ランナーの招請を教育的な観点で説明しようとするが、さすがに無理があるだろう。実際のところは、駅伝による学校の宣伝効果を見込んだものであり、チームの強化とその先の勝利を目的にしていることは否めない。
しかし、もし「教育現場に勝利至上主義を持ち込むこと」そのものを批判するのであれば、その矛先は日本人選手にも向けられるように思う。スポーツで好成績を収めた中学生を県外からスカウトして、学費や寮費を免除して高校に受け入れることも構造としては同じように見えるからである。
それは陸上に限らず、野球やサッカー、バスケットボールなど他のスポーツでも同様だ。チームのレギュラー選手の大半が県外出身の選手でありながら、高校が所在する都道府県の代表として全国大会に出場するというケースは、珍しくないどころか強豪校の中ではほとんど常識になっている。


