「あの人が母を殴った日のことが忘れられません」

 その理由は家族の拒絶である。入院中の手続きで連絡窓口になっている妹と一度だけ面談したことがある。井上さんの現況を踏まえて私は提言した。

「病院ではずいぶん落ち着いてすごされています。自宅でも安定してすごせるかもしれません」

「あの人が母を殴った日のことが忘れられません。今は落ち着いているかもしれませんが、いつまた同じことをするかと思うと怖いんです。病院にいてくれれば、これまでどおりの援助はします」

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 妹さんの口ぶりから、何を言っても意見は変わらないという確固たる意志を感じた。

 井上さんが病院送りにした母親は数年前に亡くなり、健在している家族は彼女だけ。母親と同居していた実家はすでに売却され、妹さんが受け入れを拒めば井上さんに帰る先はない。こうして、彼のカルテに登録されている住所欄には病院のアドレスが上書きされた。

写真はイメージ ©getty

「統合失調症の症状で暴力が出ていた」と医学的に説明されても、被害を受けた人は納得ができない。「病気だから仕方ない」と言われても、傷つけられたという事実は変わらない。それは相手が肉親であっても同じなのだ。

 家族の受け入れがなくても、自立した生活能力があれば、退院して一人暮らしをするという案もある。ただ暮らすのは現実的ではない。

次の記事に続く 「三度の食事に困らない」「友達もいる」もはやシャバで生きられない⋯現役医師が「精神科病院は、行き場を失った人の最後の砦」と語る理由