稲本は、大島にいっていた。

「これから日本人の先頭に立つ人として、竹下は、教育上よくない。自分がよければいいということではいかん。まして、人に範を示すべき立場の人が、そういう人の道を外れることは許されない。

 人間だから、往々にしてそういうことはある。しかし、まちがいに気づいたときには、反省して修正しないといけない」

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 1987年1月22日に、皇民党幹部の名前で政治団体「竹下登輝励会」設立届を、自治省政治資金課に提出した。事務所は、当時の皇民党本部に置かれた。1月末には、「竹下騎麗会」と称し5台の街宣車に30人が分乗し、高松を出発した。

日本皇民党による竹下「ほめ殺し」運動の展開

 竹下への「ほめ殺し」は、島根県の松江、竹下の実家のある飯石郡掛合町(現・雲南市)からはじめた。13台の街宣車を連ねて練り歩いた。

「竹下登を、総理大臣にしよう」

 地元の後援会はよろこんだ。全員が出てきて道路に沿って整列し、日本皇民党の街宣車に頭を下げた。しかし、あまりにも褒めすぎるので、おかしいと思ったのかもしれない。

 3日目くらいには誰も出てこなくなった。道路沿いの家は扉どころか、カーテンを閉めきってしまっていた。

 日本皇民党を非難する者も出てきた。

「あなたたちのいっていることは、おかしい。竹下先生を応援しているようで、むしろ非難しているじゃないか」

 大島らはいった。

「それは、あくまでもとりようじゃないですか。こっちは、褒めているんですよ」

 そういわれれば、相手は、グウの音も出ない。

 島根県からはじまった活動は、全国に広がった。

写真はイメージ ©AFLO

 稲本は、竹下に対しても、東京で執拗な「ほめ殺し」を展開していくことを思いついた。国会の本会議がはじまる午後から夕方にかけて、永田町界隈の要所で「ほめ殺し」運動を展開した。

 この街宣車攻撃には、打たれ強い竹下も、さすがに精神的にこたえた。