自身を育ててくれた田中角栄を裏切り、派閥を乗っ取ったとして、右翼団体・日本皇民党は竹下登に対して「人の道を外れている」と激怒。彼を褒めちぎることで逆にイメージダウンを狙うという“心理戦”を敢行した。打たれ強いはずの竹下が円形脱毛症に追い込まれてしまうほどの、作戦の実情とは……。

 ルポライターの大下英治氏による『昭和・平成 経済事件秘録 誰も書けなかった「経済マフィア」たちの正体』(清談社Publico)より、昭和政治最大のミステリー「皇民党事件」の幕開けを抜粋、紹介する。

 1987年、総理の座を目前にした竹下登を襲った前代未聞の事態。それは、右翼団体日本皇民党による大音量の「ほめ殺し」作戦だった。恩師である田中角栄を裏切り、自らの派閥を立ち上げた竹下に対し、彼らは決して牙を剥かない。ただひたすらに、竹下を「褒めちぎる」のだ。

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「褒めることは、摘発の対象になりません」——警察の盲点を突き、永田町を大混乱に陥れたこの奇策は、いかにして、したたかな政治家を追い詰めたのか。

 ここでは、ルポライターの大下英治氏による『昭和・平成 経済事件秘録 誰も書けなかった「経済マフィア」たちの正体』(清談社Publico)の一部を抜粋。昭和政治最大のミステリー「皇民党事件」の幕開けを紹介する。

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親を裏切った男、竹下登

 1987年春、右翼団体「日本皇民党」の街宣車が、国会周辺をマイクでがなりたてながらうねりまわった。

「国民のみなさん。この秋には、評判の悪い中曽根さんが退陣します。われわれ国民の代表として、金儲けのうまい竹下さんを、ぜひ総理総裁にしましょう」

 竹下登は、1971年に第三次佐藤内閣官房長官として初入閣を果たす。1974年には第二次田中内閣官房長官、1976年には三木内閣建設大臣、1978年には衆議院予算委員長、1979年には第二次大平内閣大蔵大臣、1981年には自民党幹事長代理を歴任。さらに、1982年11月に発足した第一次中曽根内閣から、1985年12月の第二次中曽根第二次改造内閣まで、大蔵大臣を四期連続つとめた。1985年には、先進五カ国大蔵大臣会議で“プラザ合意”に加わる。竹下は、総理大臣に向けて実績を積み上げていた。

竹下登 ©文藝春秋

「親を裏切った」といわれることになる竹下登の行為とは、1985年2月7日に起きた。そのころ安倍晋太郎、宮沢喜一と並んでニューリーダーと呼ばれていた竹下は、勉強会と称して、所属していた田中派内に「創政会」を結成したのである。

 当初、勉強会と聞いてあっさりと認めていた田中だったが、その実態は竹下派の旗揚げと知って態度を硬化させた。徹底的に切り崩しにかかった。80人を予定していた参加者数は、衆議院議員29人、参議院議員11人の40人に減った。田中にとってショックだったのは、竹下が派中派を立ち上げたというだけでなく、その中核となっているのが、小沢一郎、羽田孜、梶山静六ら手塩にかけた議員たちが含まれていたことであった。

 それからというもの、田中は、ただ黙って、好きなオールド・パーを飲みつづけた。そして、1987年2月27日、田中は、脳梗塞で倒れた。「創政会卒中」とまでいわれた。

 2カ月後の4月29日に、娘の眞紀子の手で、入院先の東京逓信病院から、目白の田中邸に戻された。リハビリをつづけているという声は聞こえているものの、田中自身が、表に出ることはなかった。