前回に続いて、歴史学者の本郷和人氏が「七将襲撃事件」の原因を探る。そこから見えてくるのは、「豊臣システム」を疑わない石田三成とそのシステムを何が支えているのかを理解していた加藤清正ら秀吉子飼いの武将たちの対立である。

 本郷氏の最新刊『インテリジェンス関ヶ原』(文春新書)から、加藤清正らの「天下観」と石田三成のそれの違いを論じたくだりを抜粋してお届けする。

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朝鮮出兵の恨みだけが三成襲撃の原因ではない

 朝鮮出兵を通じて、戦争運営そのものや明や朝鮮との外交にまで三成の発言が重視されるようになります。秀吉は、準一門でもある加藤清正(秀吉の生母である大政所と清正の母が従姉妹、あるいは遠縁の親戚であったという)などの古参の家臣や、それまでブレーン的な役割を果たしてきた黒田官兵衛よりも、三成を重んじるようになったのです。

 この朝鮮出兵で生じたしこりが、三成襲撃の直接的な原因のひとつであることは間違いないでしょう。

 七将に数えられる武将たちに諸説あるとしましたが、その中心的存在が加藤清正や黒田長政であることは揺るぎません。また第四話でも触れた通り、この事件のあと、「朝鮮で積極的に戦わなかった」として秀吉から処分を受けた蜂須賀家政と黒田長政の名誉回復がなされます。かわりに、当時の軍目付(いくさめつけ)として蜂須賀、黒田を告発した福原長堯(三成の妹婿)は減封ののち改易となります。

 そう考えると、「七将」のメンバーには、蜂須賀家政や、やはり朝鮮出兵で叱責を受けた藤堂高虎が加わっていた、と考えるのが自然でしょう。

 しかし、「朝鮮出兵の恨み」だけが襲撃事件の原因だったのでしょうか。たとえば福島正則や細川忠興は、朝鮮の件とは直接関係がありません。

役職の呼称に表れた三成の「天下観」

 私は、石田三成が襲われた背景には、彼の「天下観」があったと考えています。

「天下」とは何か? そして「天下を動かすもの」とは何か?

 秀吉が一代にして天下を統一し、多くの有力大名を同盟的臣従者として、その支配下に組み込んでいったことはすでに述べました。さらに朝廷を利用し、自らは関白に就任、他の武将たちも官位によって序列化し、その支配を権威づけます。

 秀吉の統制力は、ついに命令一下、海を越えて朝鮮半島にまで諸大名を動員するに至ります。さらに太閤検地、刀狩、兵農分離などの一連の政策を通じて、諸大名の権力基盤である領地支配にも、統制と介入を行いました。

 こうした巨大なオペレーションを「豊臣システム」と呼ぶならば、そのシステムを実際に動かしていたのが、石田三成(をはじめとする奉行衆)だったのです。

 三成らの意識では、この「豊臣システム」は秀吉の死後も継続されるべきものでした。秀吉の「権威」はそのまま秀頼が引き継ぎ、政権のオペレーションは自分たちが握る。この巨大な「豊臣システム」を運営することができるのは自分たちだけだ、というわけです。

 それがうかがえるのは、役職の呼び方です。残された文書からは、三成らは自分たちを「年寄」と呼び、家康ら五大老のことは「奉行」と呼んでいたことが分かります。

「年寄」とは室町幕府の評定衆や引付衆、江戸幕府の老中、諸藩の家老のように、政務を指導し司る重職です。つまり三成ら奉行衆こそが政権の中心であり、家康らは三成らの意を受けて、所領の配分などを承認する役割にすぎない、と位置付けていたといえます。

 そうした三成たちの姿勢は、秀吉の死の10日後、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家にあてて、毛利輝元が提出した起請文にはっきりとあらわれています。

 この起請文は、もともと三成が原案を書いたもので、秀頼への忠誠を述べたものですが、三成はあとから次のように書き加えています(慶長3年8月28日「毛利輝元起請文前書案」)。

「もし今度お定めになった五人の奉行のうちで誰であっても、秀頼様への逆心はなくても内心で増田、石田、前田、長束と意見が異なる輩があれば、私(毛利輝元)は四人衆と相談して、秀頼様に奉公するでしょう」

 この「五人の奉行」とは家康をはじめとする、いわゆる「五大老」です。そして、四人衆とは増田、石田、前田、長束を指します。つまり三成は、大老たちが腹の中で三成らと違う意見を持っていることも許されない、そういう「輩」(念頭にあるのは家康です)がいたら、自分は三成たちの側に立つ、と輝元に誓わせているのです。

 大老たちと自分たち奉行衆の意見が異なるときは自分たちが正しい。つまり自分たちこそが(秀頼を奉じて)豊臣政権を継ぐ者である――。それが三成の「天下観」だったと考えられます。