日本アニメの源流と『鉄腕アトム』という劇薬
そんな矛盾を抱えた2つのOSを原動力に、日本のアニメーションがどのようにして独自の進化を遂げたのか。谷口氏は日本アニメの歩みを8つの段階に分けて解説した。
まず第1段階は、「未分化の時代(1917~東映動画―大川博の時代)」。1917年に始まる国産アニメーション黎明期を経て、戦後、東映動画(現・東映アニメーション)の社長・大川博氏が掲げたのは「日本のディズニーを目指す」という方針で、たとえば『白蛇伝』(1958)が作られた。しかし、1963年、手塚治虫氏が放った『鉄腕アトム』という劇薬によって、その幸福な理想は打ち砕かれることになる。これが第2段階「転換点(手塚治虫の功罪)」だ。
「1963年に日本初の毎週放送されるアニメシリーズとして『鉄腕アトム』の放送が始まった。これが何をもたらしたかというと、アニメを産業にしました。具体的には、マンガとのメディアミックス、キャラクタービジネス、グッズ、海外展開……今あるアニメーション産業のシステムのほとんどは、この時に出来ています。ないのは著作権ビジネスくらいですね。
アニメを産業化し、その枠組みをつくった『鉄腕アトム』でしたが、問題もありました。短期間で、毎週毎週アニメを作っていかなければいけないとすると、絵に多くの枚数をかけていられないわけです。つまり、手間暇をかけられない。アニメーションというのは、作画をして動かして初めて表現できるものでありながら、作画の枚数がないので動かせないという事態になってしまったわけです。『アトム』は産業としては大成功しました。視聴者の人々は喜び、これをきっかけに続々とアニメ界に人材が集まりました。しかし文化的には失敗だったとも言えます」
動かす表現であるアニメーションを「動かせない」という矛盾。日本のアニメは、この呪いのような制約を背負った状態からスタートしたことになる。