明治末期に港が整備され現在の姿に
そもそも、宇野が港町として台頭したのはそれほど古いことではなく、明治時代の終わり頃からだ。
それより前の時代の宇野はというと、秀吉の時代に大坂城の石垣の石を運び出した、などという逸話があるくらいで、基本的には小さな漁村。近辺では、日比の港などのほうが遥かに栄えていた。
ところが、そんな寒村に近代港が現れたのが明治の終わり頃。岡山県の8代目知事・檜垣直右が県議会の反対なども押し切って「県政百年の計」となかば強引に整備を推し進めたのが現在の宇野港なのだ。
そして1910年には宇野~高松間を結ぶ宇高連絡船が誕生。以後、長らく本四連絡の主役を張り、宇野はその本州側の拠点として栄えることになる。
さらに1917年には玉地区に三井造船の工場ができて、連絡船と造船業の二本柱で発展していった。1940年には、県下第三の人口を抱える都市として「玉野市」が誕生している。
戦後は「宇野の黄金時代」が到来
戦後も宇野の快進撃は続く。1960年に宇野線が電化すると翌年、東京から直通の特急が登場。
1972年の山陽新幹線開通時には、“船も夢の超特急”とばかりに連絡船にホバークラフトを導入した。それまでは1時間もかかっていた高松までの所要時間が、これで20分ちょっとに短縮されたという。
この時期にはそろそろカーフェリーなどに押されつつあったのだろうが、それでも宇野の黄金時代。
20分ちょっとで高松なのだから、何とすれば県都・岡山駅よりもよっぽど近い。実際、当時の高校生たちは都会まで遊びに行くとなれば船に乗って高松まで足を伸ばしたのだとか。
しかし、1988年に瀬戸大橋が開通すると連絡船のターミナルとしての役割を失うことになる。



