東北が多くの労働者を送り出していたのと比べると、九州からの出稼ぎはそれほど多くない(図6-6)。
冬に雪で農業ができない東北とは違い、九州では春から秋にかけて稲を育て、収穫から次の作付けまでに野菜や麦、豆などを育てる水田裏作が広く行われていた。そのため、出稼ぎが東北ほど必要とされなかった。また、九州は福岡、熊本、長崎などの大都市に加えて筑豊の工業地帯もあり、東北と比べると都市化が進んでいた。そのことも、九州の出生率が東北よりも低かった一因であろう。
なぜ東北の出生率は急低下したか
こうした状況から一変して、戦後は東北と九州の出生率の差は格段に縮まる。その理由として考えられるのが、人口政策の転換である。
戦前から戦中にかけての日本では、「産めよ殖やせよ」という言葉に代表されるように、国策として人口増加が奨励されていた。人口はすなわち国力であり、多くの子供を産むことが「お国のため」であった。
しかし戦後になると、一転して人口を抑制する方向に舵が切られた。団塊世代が生まれた第一次ベビーブームさなかの1948年、「優生保護法」が施行され、人工妊娠中絶が合法化された。この法律は、障害者に強制不妊手術を施すといった差別的な規定があったため、のちに改正され、母体保護法と改称されている。
優生保護法に加えて、厚生省は「家族計画運動」を行った。助産師や保健師を実地指導員として各地で活動させ、避妊の普及を進めた。その結果、1947年には4.54であった出生率は、10年で2.04にまで減少し、人口置換水準を下回るに至った。
こうした人口政策には、二つの目的があった。
