寅蔵は足音をしのばせて家の裏に回ったが、クマはやはり逃げたようだった。
寅蔵は、みなを寝かせたあと、ひとり家の裏でクマが現れるのを待った。しかし、現れなかった。やがて、夜が明け、あたりが見え始めた頃、寅蔵は猛烈な眠気を感じていた。家のなかに入って横になろうとして立ちあがったとき、カサカサという音がし、クマがこちらに向かってくるのが見えた。
「来た、あいつだ」
寅蔵の眠気は瞬間に吹っ飛んだ。寅蔵はそのクマ目がけて銃を放った。当たったようだ。すると、クマは立ちあがったかと思うと、グワオーンという声を上げた。寅蔵は、これでもくらえといいつつ引き金を引いた。月の輪に命中し、赤く染まった。クマの動きが止まり、次の瞬間、ゆっくりと倒れた。クマは動かなくなった。注意して近寄ると、クマは死んでいた。完全に掌を開いていた。胸をほっとなで下ろした。
「あっ」倒したクマの体を見てみると…
すると、あちこちから銃声を聞いた集落の人たちが銃を担いでやってきた。
「どうした、クマが出たか」
「ああ。娘の家の周りをウロウロしているというので昨日から見張っていたら、出てきたので撃った」
そういって倒れたクマを指さした。
「それはお見事、お見事。しかし、なんで娘さんのところに来るんだ。俺の家に来ればすぐにやっつけてやったのに。何かよほどいいものがあったのかもしれないな」と笑いながらいった。すると、ほかの人も「そうだよな、なんでだ」という。それを聞いて、クマが来たのは、集落全体ではなく、娘のところだということがわかった。
寅蔵はハッとして、クマの体をひっくり返して肩のところを見た。すると、そこに血がこびり付いているのがわかった。
思わず「あっ」といった。
「どうした」
「いや、なんでもない」といったが、寅蔵には、一昨日手負いにしたクマであり、その夜、家の周りをうろつき糞をしていったクマだとわかった。
そのクマが昨晩、寅蔵がいちばんたいせつにしていた孫のいる家を嗅ぎつけてきていたのである。それもほかの家にいっさい寄らずにである。寅蔵憎しというクマの思いがそうさせたのだろうか。
寅蔵は改めてクマとは執念深い生きものだということを知るのだった。
※工藤与一(くどう・よいち)元大鳥マタギ。1933年(昭和八)、山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市)生まれ。大鳥マタギとして長年、クマを獲った。