クマにまつわる戦慄の体験を描いた全15作品を収録した『怖い熊 傑作アンソロジー』(山と溪谷社)が5月19日に発売された。ここでは本書から山野井泰史氏の「まさかの出来事――熊に襲われる」(初出:『アルピニズムと死』ヤマケイ文庫)を抜粋して紹介する。

 世界で活躍する登山家が、奥多摩でのトレーニング中に遭遇した絶体絶命の危機。顔面70針、右腕20針の大けがを負う凄惨な事態のなか、極限状態の彼が見せた驚異的な冷静さが印象に残る、衝撃の実話をお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

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ランニング中「歯をむき出しにした」クマが突進してくる

 はたしてこれも、〈山の事故〉というのだろうか。右腕を20針、顔を70針縫う大けがを負ってしまったのだった。

 その日はいつになく早く起きて山道をランニングしていた。妻はきのうから友人と北海道へ旅行に行っている。ぼくは午後に都心の常盤橋公園でインタビューを受ける約束をしていたので、早めにトレーニングを済ませておきたかった。

 この日たまたま選んだのは、人がめったに通ることのない杉林から、奥多摩湖を見下ろす急斜面に造られた遊歩道につなげる往復40分ほどのコースだった。遊歩道にはいくつもの小石が落ちていて、注意しないと足首を捻挫してしまいそうだ。

 足元に目をやりながらリズムよく走っているときだった。ふと変な気配を感じ、顔を上げると、前方から黒い塊が走ってきた。

 一瞬、いつものニホンカモシカかと思ったが、その塊は口を開けて歯をむき出しにし、吠えながらぼくに向かって突進してきた。

 “熊だ! 後ろからは子熊がついてくる”

 逃げようとしたが間に合わなかった。右腕を嚙みつかれ、体を倒されてしまった。

©AFLO

顔面に嚙みつかれ「顔が液体でぐちゃぐちゃに…」

 熊はぼくの体を鋭い前爪でがっちりと押さえると、こんどは顔面に噛みついてきた。

 低い唸り声を発しながら、ぼくの顔の皮を剝ぎ取るかのような勢いで首を振り続け、目には明らかに憎しみがこもっていた。

 “こんなことが起きるなんて……”

 現実感が乏しかった。痛みは強烈で、闘う気力すら湧かない。ぼくの血か、または熊の唾液かわからないが、顔が液体でぐちゃぐちゃに濡れていくのがわかった。

 “腹に蹴りを入れるか? しかし一緒に斜面を転げ落ちて鼻を失う可能性があるな”

 熊の顔面を拳で殴り、肘鉄を肩に当てる。するとなぜか突然、熊は攻撃を緩めたのだった。