すぐに立ち上がり、自宅の方角に全速力で走る。熊は再び吠えながら走って追いかけてくるが、勢いはない。
“もう深追いはしないはずだ。子熊もヨタヨタと後をついてきているから”
100メートルは走っただろうか。振り返ると熊の親子はいなくなっていた。
Tシャツは血まみれだった。クライミング用に使おうと思っていたジャージも爪でズタズタにされてしまった。
“顔の止血はどうしたらいいのだろう、せめて腕から流れているたくさんの血を止めなくては”
左手で右の脇の下を押さえ、右手でもっとも激しい痛みがある鼻を押さえた。
大量に出血しながら帰宅「はたして鼻はあるのだろうか」
家までまだ15分以上の距離。痛みには強いと自負してきたつもりだったが、たくさんの出血からだろうか、体がふらつき、意識がときどき遠のく。だれも通らない急斜面の山道、もし足を踏み外したら這い上がる余力はないだろう。
“ミスをするな、早く家に戻れ”
何度も心の中で呟いた。また、
“会う約束をしていた人に連絡をしなければ……”
“しばらくクライミングできないな……”
“隣の人はびっくりするだろうな……”
とも考えていた。
家に戻り、まずは隣の家のおじさんに救急車の手配を頼んだ。
玄関を開けて靴のまま部屋に入ろうとしたが、立ち止まってしまった。
“畳も絨毯も血で汚してしまうな、血の汚れは落ちないかもしれない”
庭でびっくりして慌てているおじさんを呼んで頼むことにする。
「奥の部屋に保険証があるので取ってきてください」
「テーブルの上に妙子への連絡先を書いた青色のメモがあるので取ってきてください」
顔面が熱を帯びはじめ、言葉を出すのも苦痛に感じるようになった。
「小さなザックの中に電話番号が書いてあるメモがあります、それもお願いします」
意識がまた遠のきそうになったとき、救急車のサイレンが聞こえた。
“急な階段を救急隊員が下ろすのは大変だろうな”
ぼくはふらつきながら階段を下りる。
道端で横になりながら、はたして鼻はあるのだろうかとぼんやりと思っていた。