倍賞美津子との離婚
啓介は、猪木がスポーツ平和党で議員として活動していた時期(89~95年)、ブラジルに戻っていた。アントン・ハイセルの仕事に集中するためだ。そのため、93年のスキャンダル報道の際は、猪木を身近で支えることができなかった。その時、議員秘書としてついていたのは快守だった。
「快守は私と逆でプロレスラーとしての兄貴を知らないんですよ。だからスキャンダルの時もね、私が日本にいたらまた違った状況がつくれてたのかなとも思うんですよ」
議員時代のスキャンダルには、猪木も相当落ち込んでいたという。またプライベートでは、87年の倍賞美津子との離婚が大きかったと振り返る。
「結婚相手、お付き合いした女性の中でも、やっぱり美津子さんは特別ですよ。私の立場からもそう感じました。素晴らしい義姉ですよ。誰とも分け隔てなくてね、話しやすいし、冗談も言うし。夫婦として見ても、すごくお似合いでね。スター同士で釣り合いが取れていたと思う」
倍賞美津子は猪木夫人というだけではなく、自身も一流の俳優。啓介の言う「釣り合い」は非常に大事な要素だった。リング上での立ち居振る舞いを猪木にアドバイスしたという話もある。
兄貴にとって痛恨
「衣装なんかも助言していましたね。やっぱり美津子さんはセンスがいいですから。結婚してから、兄貴はいろんな部分で美津子さんの影響を受けたと思います。だから、美津子さんと離婚したのは、兄貴にとって痛恨ですよね。
でもまあ、兄貴の浮気もありましたから。有名人ということで寄ってくる女性もいますしね。それに対して、兄貴も嫌とは言わないんですよ。そういう点では、弱いと言えば弱い。断れないんですね。だから私が新日本で営業をやってた時代には、周りが全部抑えてましたから。女性が近寄ってきてもブロックするんです。だけど新日本も状況が変わっていったでしょう。私もブラジルに戻ったし」
