「メジャーに行かせてくれ」「アホか」

 理想の投手像に掲げたのは、歴代最多のサイ・ヤング賞7度を獲得する「ロケット」こと、ロジャー・クレメンス。吉井は、自分で調達したクレメンスのポスターを、藤井寺のウエートトレーニング室と自宅の居間に貼り、闘争心をかき立てた。

 目標が定まれば、その歩みも力強くなる。4年目の87年にプロ初勝利を含む2勝を挙げて台頭すると、翌88年には名将・仰木彬、投手の分業制を確立させた投手コーチ・権藤博のもと、その強気な性格を買われてストッパーに抜擢され、10勝24セーブで最優秀救援投手賞のタイトルを獲得。89年のリーグ優勝にも5勝20セーブで貢献するなど、まさしく「近鉄に吉井あり」という存在に駆け上がっていく。

©文藝春秋

「自分も、クローザーやってる頃から、球団に『メジャーに行かせてくれ』って言ってたんですけど、球団からは『アホか』で終わりやったんです」

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 当時の日本球界では、FA権を取得してメジャーに行くという発想がそもそもなかったような状態で、ポスティング・システムも整備されておらず、メジャーに行くという“公的なルート”すらも確立されていない。そもそも、日本人のメジャー挑戦など「何を言っているんだ?」というような風潮でもあった。

「絶対無理やな、って思ってたんです」

 だから、野茂がメジャーに行くという噂が広まった時にも、吉井にはまず、懐疑的な思いの方が、先に立ったのだという。