デパ地下で料理の勉強

 カフェ巡りにも慣れたころ、私はデパ地下のパトロールを日課にした。未成年の私にとってビストロや高級店は敷居が高かったが、デパ地下に行けばそれらの店の味を数百グラム単位で手に入れられる。高級中華のニュアンス、和食店の出汁の深み、自分では思いもよらない食材の組み合わせ。一堂に集めたそれらの味を実際に確かめられるデパ地下は、私にとって最も身近で確かな答えがある場所だった。

 学校が終わると湘南新宿ラインの帰宅ルートに沿ってデパ地下を巡った。渋谷の東急フードショー、新宿伊勢丹、池袋の西武と東武。最後は大宮で途中下車して、そごうとエキュートを歩く。日々通うことでメニューや季節の変遷が肌でわかった。

 すべてを味わうには高校生のお財布はあまりに頼りない。結局、お昼代を切り詰め、高3からはバイトも始めて、金曜日はデパ地下で好きなものを買っていい日と決めた。100グラムずつ4種類ほど、2千~3千円かけた当時の私にとっては大きな買い物。キッシュ、パテドカンパーニュ、テリーヌ、ケールとキヌアのサラダ。家族にも分けず独り占めする。食材同士の意外な掛け合わせや彩りの妙、料理におけるチャレンジ精神の多くは、このショーケースの前で学んだものだ。

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 なだ万の「食べるスープ うにのなめらか風味」は、格別に忘れがたい。2層のスープを混ぜて口に運ぶと、うにの香りがふわりと鼻に抜ける。回転寿司のうに軍艦くらいしか知らなかった私にとってそれは革命的な味だった。これほどの逸品が、たった数百円で手に入る事実にも驚かされた。やはりデパ地下には、夢が詰まっている。 

 その後、20歳を過ぎてからウグイスやオルガンへはすぐに辿り着くことができたが、予約のできないアヒルストアだけはなかなか機会に恵まれなかった。「並んだらごめんね」と気軽に誘える夫はお酒を飲まず、かといって友人を誘って長い待ち時間に付き合わせる覚悟もできず、気づけば長い時間が流れてしまった。

作りたかったのは「目の前の誰かがうれしそうに笑っている時間」

 先日、書籍を一緒に作ったスタッフさんと食事に行く計画を立てた際、「アヒルストアに突撃してみよう」という話になった。食に造詣の深い面々となら、並ばなければならないかもという不安すら楽しめると思えた。10年以上憧れ続けた店。当日、無事に入店できたときは感無量だった。

 10年越しに食べたかった料理に出会えることは人生においてそう何度もない。夢にも出てくるほど何度も写真を見たアボカドとタコのサラダは、感激のあまり正確な味の記憶が飛んでしまったが、ただただおいしかった。

 そのとき、いつもお腹を空かせていたAの顔が浮かんだ。今すぐに、これを彼女に食べさせたいと思った。私が作りたかったのは味のよしあし以前に、目の前の誰かがうれしそうに笑っている時間そのものだったのだと気がついた。

タコ セロリ アボカド

長谷川 あかり

文藝春秋

2026年7月30日 発売

次の記事に続く 「誰かのために料理すると言いづらい時代になった」料理研究家・長谷川あかりが《夫が喜ぶメニュー》に違和感を覚えたワケ

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。