この試合でファンクスに敗れた馬場&猪木はインタータッグ王座から転落。「日プロ史上最強コンビ」と呼ばれたBI砲は、あっけなく解散となった。

 身の危険を感じた猪木は札幌での試合後、他の選手たちとは別の宿舎を取り、翌12月8日の午前の便で帰京。その足で渋谷の小林外科病院を訪れ診断書を作成し、その診断書をもとに日プロに対して9日以降のシリーズ欠場を通告。そのまま小林外科病院に入院することで、身の安全を図った。

日プロによる「妨害工作」

 71年12月13日、日プロは猪木の除名処分を正式に発表。この時代のプロレス界、もしくは興行の世界は、ある意味、戦国時代や任侠の世界のようなものだった。親分が追放されたら、その子分も居場所はない。必然的に“根絶やし”されるかのごとく、猪木派のレスラーたちも次々と日プロを離脱することになる。

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「猪木さんが追放されたあと、他の選手は明らかに俺ら(猪木派)のことを違う目で見ていた。だから猪木さんが解雇になってすぐ、山本小鉄さんも日プロを辞めたんですよ。いづらいというか、身の危険を感じるくらいの世界だからね。

 俺の場合、役員の吉村道明さんが『藤波、お前は何も心配しなくていいんだからな。ずっとここにいればいいんだから』と言ってくれてたんだけど、猪木さんの付き人だったから、どこかで『俺も一緒に行こう』と考えていたんだよね。そんな時、巡業が終わり、日プロの道場で普通に練習していたら、猪木さんの弟の猪木啓介から電話があって、『俺、今下にいるからちょっと降りてこれるか?』って言われて降りていったら、『兄貴が呼んでるから行こう』ってね。

 それで、ちょうど年内の巡業がすべて終わって先輩たちは道場にいなかったから、すぐに荷物をまとめて合宿所を出る決意をしたんだけど、もう命からがらですよ(苦笑)。

 俺は猪木さんのガウン、リングシューズ、練習道具などすべてを持っていたから、それをスーツケース4個に詰めて、いっぺんに持って逃げたからね。あれこそ火事場の馬鹿力。抜け出すところを先輩レスラーたちに見つかったら、半殺しだからね」