「17歳で代官山のマンション住まい」

「だから、俺ら猪木派は円満に独立するとか、そういう感じはいっさいなかった。変な話、当時の新団体旗揚げというのは、敵対する“組織”が立ち上がるような感じすらあったから。

 それなのに猪木さんはよりによって代官山の日プロ本社のすぐ近くに新日本の事務所を構えたんだよね。『代官山小川軒』という有名な洋食屋があるんだけど、その店の通りを挟んだ真向かいに事務所を借りた。『こんなところに借りなくてもいいのに……』って思ったけど(笑)。猪木さんからしたら、自分を追放した人間たちに対する意地だったんだろうね。

 それで新日本に来たのはいいんだけど、俺は合宿所を抜け出してきたから住むところがないんですよ。木戸さんは川崎の実家から通っていたけど、俺は地方出身だから通えないもんね。だから俺は事務所で寝泊まりしてたんですよ。事務所といっても2DKのマンションだったからキッチンもついていたんでね。だから俺は、17歳で代官山のマンション住まいだよ。聞こえはいいよね(笑)」

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 “悪者”に仕立て上げられ日プロを追放された猪木だが、除名処分となったわずか1カ月後、72年1月26日に新日本設立を発表した。しかし、ここから日プロは様々な方法で新日本を封じ込めようとしていく。

「まず、日プロがマスコミに圧力をかけたから、記者会見をしても記者が全然来なかったし、新日本の記事はスポーツ新聞にもほとんど載らなかった。また、プロモーターにも日プロから『新日本の興行を買ったら、うちは売りません』というお達しが行っていたので、いっさい興行を買ってくれなかった。だから、新日本は手打ちで興行を行うしかない状況がしばらく続いたんだよね。

 それと同時に海外には、NWAなどを通じて新日本に協力しないように通達が行っていたから、外国人レスラーを呼ぶこともできない。唯一、猪木さんの師匠でもあるカール・ゴッチの協力で、ヨーロッパの選手を何人か呼ぶことはできたけど、アメリカの選手はまったく呼べなかった。とにかく、旗揚げ当初の新日本は、ないないづくしだったんだよね」