倍賞美津子や千恵子もかけつけた!

 興行ルートも選手招聘ルートもマスコミも、すべてを断たれて四面楚歌に立たされた猪木。それでも、新日本プロレスの雰囲気は決して悪くなかった。

「猪木さんの『今に見てろ!』という気迫がすごかったからね。あの逆境がかえって猪木さんや我々の力になったんじゃないかな。みんな必死だった。猪木さんは自宅を俺らの合宿所に提供して、立派な池や松の木がある庭だったんだけど、そこをブルドーザーで更地にして、木戸さんの実家が工務店だったから、我々も手伝いながら半分手づくりで練習場を建ててね。そこで練習したあとは、我々レスラーも飛び込み営業をして、チケットを売って歩きましたよ。

 新日本は大田区体育館で旗揚げしたんだけど、いろんな会場から日プロの圧力で締め出されて、ようやく取れたのが大田区体育館だった。地方のプロモーターも興行を買ってくれないから旗揚げシリーズは6戦しか組めずに、すべて手打ち。それを少ない社員、しかも興行の仕組みを知らない人たちだけでやってるんだから。

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 旗揚げの大田区体育館以外は、地方に行くと、観客も数えられるくらいしかいない。『これが天下のアントニオ猪木の旗揚げシリーズか』と愕然とするくらいで、それがしばらく続いたんだけど、みんな必死だった。

 あの頃は、まだ新間(寿)さんはいなくて、当時の猪木さんの右腕だった木村(昭政)という元警察官が経理を担当しててね。山本小鉄さんが猪木さんの番頭さんですべてを取り仕切って、倍賞美津子さんの弟の倍賞鉄夫が営業部長。鉄夫の奥さんも事務員で、猪木さんの弟の啓介も営業だから、本当に身内しかいなかった。

 でも、倍賞美津子さんや倍賞千恵子さんも時折事務所に来てくれて、宣伝カーのテープに『本日、どこどこでアントニオ猪木の新日本プロレスが開催されます!』とかしゃべって吹き込んでくれたからね。贅沢な宣伝カーだよ(笑)。

 それで山本小鉄さんの奥さんは栄養士だから、みんなに昼の弁当をつくってくれたり。本当に家族も巻き込んで、一丸となって『この新日本を成功させるんだ!』って燃えていたから、何も怖くなかった。若かったというのもあるけど、自分のこれからの生活や人生の心配なんていっさいなかったね。そういう熱意がファンにも伝わっていって、少しずつお客さんも増えていったんですよ」