「勝ち確」合戦でもぬかりない秀吉本陣

南東角の内側 写真=今泉慎一

 両サイドを土塁に挟まれ、スロープ状にゆるい勾配になっている。つまり土塁との落差は外側に比べてかなり小さい。これなら城兵が迎撃のため土塁上に登るのは容易な一方、外から迫る敵には険しい。この迫り出した一角を除けば、主郭内ほぼ正方形でほぼ平坦。

太閤ヶ平の主郭内部 写真=今泉慎一

 グルリと囲む土塁は、南西だけ極端に幅が広い。ここは櫓台の跡だったのだろう。

太閤ヶ平主郭の南西。奥の高い場所が櫓台 写真=今泉慎一

 櫓台の外側にもやはりきっちり空堀。ぬかりない。

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櫓台外の空堀 写真=今泉慎一

 鳥取城の戦いは、合戦前からほぼ織田軍の「勝ち確」だった。元々の城主だった山名豊国は追放され、徹底抗戦派として残った連中が、味方となる毛利家から緊急的に迎え入れた城主が吉川経家。これでは結果はほとんど見えている。

 それでも手を抜かないのが前線の総大将を任された秀吉だ。地域の兵糧を買い占め、乱暴狼藉を働かせ庶民を鳥取城内に追いやり、より兵糧不足を促進させる。周辺には70を超える陣城を築き、包囲網の総延長は12km超。千に一つも攻められる可能性はなさそうだが、自らの陣もガチガチに固めている。

 秀吉は数々の大胆不敵な決断をしてきた男だが、こと鳥取城の戦いにおいては、徹頭徹尾、用意周到。太閤ヶ平に身を置くと、それが実によくわかる。

兄の城から弟の城へ

 太閤ヶ平からは、攻め落とすべき鳥取城もしっかり見える。標高は前者が251m、後者が263m。鳥取城のほうが12mほど高いが、秀吉はきっと睥睨している気分だっただろう。

太閤ヶ平から見た鳥取城山上ノ丸 写真=今泉慎一

 余談だが、ある城郭専門家の執筆記事で「(太閤ヶ平は)鳥取城内の炊飯の匂いもかげるほど目と鼻の先だった」との文章を見たことがあるが、1.5kmも離れていては、流石にそれは無理だろう。

 両城の距離は直線なら1.5kmだが、登山道は尾根伝いに迂回するので2.2km。整備された登山道で迷うことはまずない。

一部尾根の細い部分もある 写真=今泉慎一
鳥取城付近の登山道(現地配布の地図より)。緑の線が太閤ヶ平から鳥取城への登山道 写真=今泉慎一

 鳥取城の戦いには、秀吉の弟・秀長も参陣していた。太閤ヶ平から2つ目の分岐を通り過ぎ、下り勾配で尾根から道が離れたあたりにそれがあるはずなのだが……。

滑りやすい砂地の登山道 写真=今泉慎一

 あの尾根上だろうか? しかし城の遺構らしきものは見当たらず。首を傾げながらもう少し進んでみると──。