帰朝した佐藤は、明治20年(1887年)11月、帝国大学医科大学の外科教授に任じられた。当時、外科を教えていたお雇い外国人ユリウス・スクリバがなお在任しており、『東京大学医学部百年史』に基づく東大の沿革によれば、附属医院の外科手術はスクリバと佐藤の二人が担っていたという。明治26年(1893年)に講座制が敷かれると、佐藤は外科学第二講座の教授となる。外科が体表の傷の処置から、腹部や胸部といった体内の病へと踏み込んでいく、ちょうどその時期にあたる。佐藤は内臓の手術に防腐・無菌の考え方と止血法を重んじる術式を取り入れていった。
看護婦の大関和と共に働いた
佐藤が外科を担ったこの第一医院は、日本で「看護」が生まれようとしていた場所でもあった。当時の看病婦の多くは基礎教育のない寡婦で、教育を受けた看護婦はほとんどいない。そこへ観察と衛生を柱とするナイチンゲール方式を持ち込んだのが、バーンズ先生のモチーフ、アグネス・ヴェッチである。明治21年(1888年)、外科の病室に痩せ衰えた重症の男児が収容された折には、ヴェッチが佐藤の許可を得て病室を磨き上げ、その看護に皇后(のちの昭憲皇太后)も心を動かされたと伝えられる(平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」、『昭憲皇太后 附女四書』)。
無菌を旨とする外科医にとって、病室を清潔に保つ看護は、敵ではなく自らの手術を支える土台だった。手術がいかに巧みでも、そのあと傷が膿めば患者は助からない。手術室の清潔を信じる佐藤と、病棟の清潔を貫く看護婦は、向かう先が同じだった。
「大関は僕の友人である」と公言
じつは、りんを看護から遠ざけたこの対立には、確かな史実の裏づけがある。大関和は明治21年の卒業後、第一医院の外科で看病婦取締(看護師長)を務めた。実習生のころには、乳癌の患者にすがられて一晩じゅう付き添い、医師たちから叱責を受けたこともある(『「大関和」を通して見た日本の近代看護』)。患者に寄り添うことと、医療の規律に従うこと。その板挟みは、ドラマのりんが立たされた状況と重なり合う。