佐藤は、俳人・正岡子規の手術も手がけている。明治30年(1897年)、腰の痛みを訴えた子規を診て、当初疑われたリウマチではなく脊椎カリエスと見立て、二度にわたって腰の腫物の膿を抜いた(子規庵「正岡子規について」、国立国会図書館レファレンス協同データベース/『子規全集』書簡・略年譜に基づく)。その前後の様子は、子規自身の書簡にも書きとめられている。注目したいのは、この手術のあと、同年6月に子規のもとへ日本赤十字社の看護婦が約1カ月入っていることだ(叔父・加藤拓川の出資)。執刀した外科医と、療養を支えた新しい看護とが、子規という一人の患者のそばで出会っていた。

二代の天皇や要人を診察した佐藤

佐藤は子規のほかにも、明治天皇・大正天皇をはじめ、東郷平八郎、原敬、教育家の下田歌子ら各界の要人を診療し、皇室の侍医も務めた。外科医であると同時に、教育者でもあった。外国人教師に頼っていた外科を、日本人の手で担う段階へと進め、後進を育てる中心に長く立った。明治32年(1899年)には第一回日本外科学会で初代会長に選ばれ、幹事には、のちに日本の整形外科を切り拓く田代義徳らが名を連ねている(日本外科学会「日本外科学会の足跡」)。その設立趣意書には、かつて手をつけられないとされた臓器も、もはや外科の領分だと記されていた。外科が扱う範囲が大きく広がっていく時代である。

明治34年に附属医院長、大正7年(1918年)には東京帝国大学医科大学長に就き、大正11年には貴族院議員に勅選された(「佐藤三吉関係資料」)。なお、同じ明治の外科に、リスター流の防腐法を日本へ持ち帰った順天堂の佐藤進という別人がいる。同姓で混同されやすいが、ドイツ仕込みで帝国大学の外科を率いたのが、こちらの佐藤三吉である。

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昭和18年、85歳で亡くなる

私生活では、佐藤は岐阜県令・知事を長く務めた小崎利準の長女・滋子を妻に迎えている(『人事興信録』第8版)。小崎は伊勢亀山藩の出で、明治の前半を通じて佐藤の郷里・岐阜の県政を率いた人物だった。大垣の藩士の家から身を起こした佐藤は、故郷を治めた一家と縁を結んだことになる。