教授となった佐藤は、その和を高く買っていた。トレインド・ナースの力を認めた病院上層部のなかでも、和への評価はとりわけ高かったという。佐藤は「大関は僕の友人である」と公言し、頭の回転が早く判断の的確な和を、医師と同格に扱った(青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』)。
取締となった和は、看病婦たちの惨状を見かねていた。仕事量は膨大で、休憩も交替もままならず、過労で病棟に倒れる者まで出る。そこで和は、外科の責任者であり医局長でもあった佐藤に宛てて、「看病婦の待遇改善に関する建議書」を提出する。看病婦を増やして昼夜の二交代制とし、睡眠と休息を確保すること、居室に新鮮な空気を入れること。古風な文体ながら、現場の実情を踏まえた、筋の通った提案だった(『「大関和」を通して見た日本の近代看護』、別冊太陽『大関和』)。
和は待遇改善を要求し、解任される
だが、医局を通さず教授に直訴したことが、医師たちのプライドを傷つけた。自分たちの頭越しに佐藤へ建議書が渡ったことに彼らは憤慨し、和の解任を求める声が医局内に湧き起こる。当時、病院での医師と看護婦の関係は「主人と召使」に近かったという(村上信彦『近代史のおんな』)。これだけの騒ぎになっては、佐藤にもはや和を庇う余地はない。医師たちの声を容れ、和を看病婦取締から解任して事を収めた(青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』)。
役職を解かれても病院を追われたわけではなく、一看護婦として残る道もあった。だが大半の医師を敵に回したいま、和は明治23年(1890年)11月、わずか2年で第一医院を去ることを選ぶ。3カ月後には、内科の看病婦取締だった鈴木雅(直美のモチーフ)も同院を退いている。
和が去った後の帝大病院では…
皮肉なことに、和が去ってまもなく、第一医院では看病法講習の聴講が許され、成績優秀者に卒業証書を与える規定までできた。和が建議書で求めた看護教育の充実は、彼女を追い出したあとに形になっていったのだ。看護を専門職として認めるかどうか。そこに、佐藤と和を隔てる一線があった。ドラマの「友達や家族としてなら理解できる」という今井の言葉は、患者に寄り添う看護が医療の秩序とぶつかった時代の軋みを、よく言い当てている。