50点の論文をどんなに量産しても「80点」に届かない理由
院生時代、わたしの指導教員の授業での発表は、論文を読み上げるという形式が採られていました。要点をまとめたレジュメなどではなく、フル・ペーパーを書いてきて、それを音読するというのが「発表」の内容だったのです。
例によって、わたしは出遅れていました。全員で同じ小説を読んで、それについて1万字ほど書くのですが、そんな量の言葉はスラスラ出てこない。先輩たちの発表が自分の発表よりも優れているのかどうかすら判断できない状態でした。ルールを知らないスポーツを観戦していたような感じです。
それでも、なんとか食らいついていくしかありません。わたしは割り当てられた以上の回数を発表させてくれるよう教員に頼み、ほかの受講者の1.5倍くらい発表していました。いち早く成長するために、努力の量を増やしていたわけです。やる気がありますね。
そうして、1年半ほどが経った頃だったでしょうか。出遅れていたわたしもなんとか追いつきはじめ、周囲と遜色ないレベルの発表ができるようになっていました。
さて、これ自体はめでたいのですが、わたしはかなり早い段階で、このままだとマズいのではないか、と感じはじめていました。なぜでしょうか。
この授業の発表は、平均的な授業よりも高負荷です。では、なんのためにそうしているのか。論文が書けるようになるために決まっています。ただ、授業で書いている発表としての「論文」は、そのまま学術誌には載りません。そんなものを授業のたびに書けていたら、とんでもないことです。
しかし、です。かりに学術誌に載るために必要な論文のスコアを80点だとしましょう。わたしが授業で書いている「論文」の平均値は、どのくらいでしょうか。せいぜい50点くらいです。50という数字はてきとうですが、さすがに70点ということはない。つまり「もうすこしで届く」圏内ではなく、だいぶ遠いということです。
ここで、あらためて考えてみましょう。50点の論文を何本も書くことは、80点の論文を書くための練習になるのでしょうか?
じつは答えはノーなのです。50点ぐらいの論文を100本書いても、ちょっと上振れたときにドカンと80点が出ることはない。せいぜい55とか60どまりです。
つまりこれは、80点の論文を書くという本来の目標を忘れ、50点くらいの論文を量産することが自己目的化した作業になってしまっているんですね。授業に慣れてきたわたしは、そのことに気づいたというわけです。
では、こういうとき、どうすればよいのでしょうか。