広島への原爆投下後、膨大な数の被災者が運び込まれた広島市南部の離島・似島では、連日数百人規模の死者が続出していた。あまりの遺体の数に火葬用の重油すら尽き、救護に当たった10代の少年兵たちは、腐乱する遺体を防空壕に放り込んで集団土葬する過酷な任務を強いられた。「人間らしい弔いすらできなかった」と戦後何十年も自責の念に苦しむ元兵士たちの心情とは……。
「この世の地獄」と化した島で起きていた惨劇の真実を、永井均氏の著書『被爆者が眠る島 知られざる原爆体験』(岩波ブックレット)の一部を抜粋して紹介する。
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死者の扱い
似島では大火傷を負い、運び込まれる被災者が、当日中に相次いで急逝する異常な事態となっていた。治療の施しようがなく、死者が続出した状況は、広島市の中心部のそれと変わりがなかった。似島の野戦病院では、将兵らが夜間の見回りを行ったが、交替兵には次のような申し送り事項が伝達された。
時々懐中電灯にて患者の容態を見て廻ること。もし死んでいた患者があったら、ガーゼを細かく切って胸の上にそっと置いておくこと。顔へは絶対に掛けないこと。他の患者が見たら気落ちするから(*1)。
*1 吉原利男「臨時野戦病院」前掲『われら病院船』167頁。
似島では8月6日だけで650人もの死者が出たという(*2)。
*2 前掲、大坪「『キユウゴ シヨ』オカイセツセヨ」180頁。小原好隆「『聖地似島』私の想いで記」前掲『若潮三期の絆』421頁。被爆から数日後、陸軍省広島災害調査班が似島入りし、山科清軍医少佐(東京第一陸軍病院)が8月10日から15日まで12例の病理解剖を行い、京都帝国大学の杉山繁輝教授も8月11日と12日に3例の病理解剖に取り組んだ。これらは被爆者に対する病理解剖の最初期のものとされる(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』岩波書店、1979年、388頁)。
当初、救護者たちは宇品から間断なく搬送される負傷者の収容と看護に追われ、遺体処理にまで手が回らなかった。遺体が似島に送られてくることもあった。遺体はしばらく検疫所の桟橋付近や構内の中庭に積まれたままとなった。6日午後より陸軍海上挺進戦隊の100人の若き兵士が幸之浦(編集部注:似島南部に位置する島・江田島北部に面した町)から似島に到着し、ようやく遺体の処理作業が進捗した。海上挺進戦隊は、爆雷を積んだベニヤ板のボート(通称「マルレ」)に乗って敵艦に攻撃を加える陸軍水上特別攻撃隊(特攻)要員で、10代後半から20歳前後の若者中心の部隊だ。彼らは似島に派遣されて初めて原爆の恐怖に直面した。




