「死んだ人を人間らしく扱えなかった――」

 死んだ人を人間らしく扱えなかった――。笠江は、戦後、何十年も「人間としての良心の呵責にさいなまれ」、その自責感から体験したことを長く語ることができなかった。

 遺体処理を担った少年兵の古田輝吾(当時17歳)も、自身の体験を次のように書き残している。彼が江田島から似島入りした翌8月7日からの描写である。

 翌日から死者が続出、最初は火葬場で、次に地面に大きな穴を掘って野焼き、3日目頃からとうとう処理し切れず防空壕へ埋めることとなる。一つの壕に80人とか90人とか人数を記した立札が立てられた。戦災から身を守るために作られた防空壕に爆弾の犠牲となって埋葬させられるという皮肉さをどう表現したらよいものか(*8)。

*8 古田輝吾「似島での救護活動」『被爆体験記集(被爆地別五十音別) 広島被爆』第92巻、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵

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 少年兵たちはさらに、夜になると遺体が野犬に襲われないよう、「屍衛兵」として交替で巡回警備の任に就いた。

 8月9日頃になると、遺体を島の南側の崖にあった洞窟(退避壕)に運び入れ、そこに積み重ねて土葬するまでになった(*9)。

*9 義之英公「似島原爆救援記」前掲『若潮三期の絆』444-449頁。

 救護者たちは、人間らしい死者の弔いをなし得ぬまま、各所で遺体の集団埋葬を迫られたのだった。このように死が島を覆っていた時、新たな命が誕生した。原爆被災直後、似島にたどり着いた4人の妊婦が、阿鼻叫喚の現場で赤ん坊を授かったのである(*10)。

*10 前掲『似島原爆日誌』96頁。このうち、8月7日の未明に検疫所の負傷者病室で男の子が生まれた出来事については、松本イマノ氏(似島の住民で、当時20歳)の手記があり、「この時ばかりは兵隊も私もみんな笑彦〔顔〕が出て、手をたゝき、よかった、おめでとう、と云いました」と記されている(『被爆体験記集(被爆地別 五十音別) 広島被爆』第98巻、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵)

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