まさに「この世の地獄」だった。遺体処理の現場をこう表現したある兵士は、当時の作業を次のように記している。
真夏の暑さと、原爆により三日間燃え続けた火災の熱で、遺体は腐乱し、その死臭は言語に絶するものであった。運搬の際、遺体の手首をつかむと、腐った肉がズルッと剝げて、直接骨をつかむようで軍手二枚重ねていても、溶けた肉片と血を絞る有り様であった(*6)。
*6 )「この世の地獄、遺体処理」神奈川県原爆被災者の会編『忘れられないあの日――広島・長崎被爆者の詞画集』非売品、2000年、36頁。筆者は無記名だが、「十九歳 軍人」とあり、海上挺進戦隊所属の元兵士と推察される。文章には、遺体処理の作業中の絵も添えられている。
馬の遺骸を焼く焼却炉で荼毘に付す
ところで、収容後に死亡した被災者の遺体は、いったん中庭に置かれ、その後、馬匹検疫所まで運ばれた。馬の遺骸を焼く焼却炉を使って荼毘に付すためである。一部の遺体は東大谷にある地元の火葬場でも荼毘に付された。火葬には長時間を要し、膨大な死者を前に、遺体の処理はとても追いつかなかった。そのため、馬匹検疫所の構内はあたかも遺体安置所のような状態になってしまった。
肉親を捜しに来る家族や知人が島に殺到したため、救護者はその対応にも追われた。当初、遺体を連れて帰るつもりだった家族の中には、現地での火葬か土葬を依頼して、そのまま島を後にする例もあった。
運び込まれる遺体の数が増えるにつれ、遺体の処理に当たる少年兵たちは付近の地面に穴を掘って野焼きにした。彼らは、遺品や名札、遺髪を封筒に入れて、表に住所と氏名を書くように努めたが、重傷者があまりにも多かったため、実際には被災者情報の記載は十分にできなかったようである。8月7日の夕方6時、宇品の佐伯司令官は死体を火葬するため、重油5ドラムを似島に送るよう部下に指示した。しかし、死者の続出によって火葬さえ追いつかなくなっていた。
いよいよ火葬用に燃やす資材にも事欠くようになると、少年兵たちは遺体を防空壕まで運んで土葬した。笠江春美(当時17歳)は、遺体搬送の場面を次のように回想している。
衛生兵救援の私たちは15名位の小班であったので担架で〔遺体を〕馬疋〔ママ〕検疫所の山裾に掘ってあった散兵壕へ運んだ。すでに何体かの遺体が並べられてあった。その上に担架で運んだ遺体を1、2の3で投げ込んだ。蝿がヴァーと立ち上がり悪臭がたちこめた。息を止めて一目散にその場を逃れた。何組かでこうしたあざとい行為を繰り返した(*7)。
*7 笠江春美「似島救援兵」尼崎市原爆被害者の会『未来への伝言⒡⒢広島・長崎被爆者が綴る証言集』私家版、1997年、44頁。



